紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:なにをすればいいのかわからない という基本的な問い

 芸術系学校で美術を学んで(学んだのだろうか?)二十二の歳で卒業したときにふと思ったことは「さて、私はなにをすればいいのだろうか」ということだった。といってもその時に初めてそう思ったわけではなく、在学中からすでに「将来、自分はなにをすればいいのか」という問いは影のように常に自分にピタリと寄り添っていて(というか芸大に行こうと決めた時点でもう…)、大学を卒業することによって「将来」が「いまから」に変わっただけである。

 とにかくその頃からいろんな仕事をした…と言いたいところだけどそんなにしていない。私は時間を金に換えるくらいなら金がなくて寝ている方がマシだという体質なので、親の脛を太ももくらいまで齧ってやろうという心意気で出来るだけ働かずにやってきたものだからソローほどのたくさんの仕事を経験したわけではない。が、しかしそのいくつか就いて辞めてきた仕事の中で「私はこれをするべきだ」と思うようなものもなく、すべて「これをするくらいなら金がなくても家で寝てる方がマシだな」と思ってそれぞれにでかいバツ印をつけてきた。

 とは言えまったく金がないと死んでしまうし親の脚ももう限界という感じなのである程度テキトーに働いてある程度貯金がたまったら仕事を辞めて数年ぶらぶらする…というライフサイクルをなんとか回している。その間に本を読んだり絵を描いたり音楽を作ったり詩を書いたり本を作ったり女の子と遊んだりしている。と書くとなかなか気楽そうに生きているように思えるかもしれないが、やはり自分には常に「さて、私はなにをすればいいのだろうか」という問いがつきまとっている。今の生活スタイルはとても気楽とはいえないものであり、いつまでも続くとも思えない。さて、なにをすればいいのだろうか。

 さて、なにをすればいいのだろうかという問いは、言い換えると自分はなにをするために生きているのかと問うことである。バックミンスター・フラーは無一文で講演に呼ばれた先で学生に向かって「エントロピーに反するように働けばあとは宇宙が面倒を見てくれる」と言い放った…のだが、この宇宙に無駄をまき散らさずにいったいなにをすればいいのだろうか?スパム・メールを送るバイトなんてエントロピー全開で論外である。たとえそうでなくてもこの社会や他人に関与したいという欲求や必要性を感じないわたしは、ほとんどすべてのことに他の人を差し置いて自分がわざわざそれをするというほどの価値や意味を感じないまま、エントロピカリーな営みに弱く参加し、いまもさまよっている状態であるといえる。

 とにかく、私は学校を卒業して十年以上も経つのだが、あのときの「さて、なにをすればいいのかな」という状態から一歩も進んでいない。その問いを保ちながらいろいろ試したり、休んだり、あれこれ考えたりしている。これは心愉しい状態ではないが、極めて個人的な問題をリアルに抱えつづけて生きているというのは、まあ最悪だけど悪くないと(ムリヤリ)思っている。この問いがある故に、私の「生きる」という状態は「考える」とか「探す」という動詞と常にある。いつかこの考える/探すということがなにかにつながるとしたらやはりこれを続けるべきなのだと言えるし、もしかしたら考えることや探すことそのものが私の人生ですべきことなのかもしれない(最悪…)と自分を逃がさないように言い聞かせ、なんとか今日も生きている。

 なにをすればいいのかわからない という基本的な問いは、その問いがそのまま自分の…いや、やっぱりよくわからないな。

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作業日誌:知らない女子高生を見てもう死んでもいいかなと

 今日、駅から家まで歩いてたら目の前を歩いてる女子高生がいて、その子がなんか音楽聴きながら身振り手振り、たぶん踊りの練習をしながらてくてく歩いてて、それがとても自然で気持ちがよさそうでこっちも嬉しい気持ちになった。そして彼女のように振る舞うことはもう自分はないだろうなと思い(たぶん失った)そして彼女が今後どういう大人になっていくのかを思うと、それをポジティブに感じると同時にそれを私はもう知ることはないだろうということ、そして知る必要がないのだということにも清々しさのようなものを感じた。

 私はこれからを生きる人たちと完全に違うし(私の時間は終わった)、これからを生きる人たちがどうなっていくかを知ることもない。知る必要もないし心配もしない。そしてそれが自然なことなのだ。

 といった認識が理由のひとつとなって、あ、自分はもう別に死んでもいいなと感じたんだけど、死んでもいい理由には別の要素もあって、短期的には今日見かけた彼女のような新しい人たちがどんどんいるってことと、長期的にはいづれ地球も太陽もなくなってだれひとり生きてないしすべてのことをだれもなにも憶えてないってことだ。

 新しい人たちのなかには今日見かけた彼女のような全く私の知らない(けど私をわくわくさせてくれるような)人と、そして私をほんのちょっと齧りとって取り入れてくれた人といて、どちらも…あ、あまり変わりないな。「新しい人」というだけの認識でいいや。

 とにかくそうなると(いつ死んでもいいやとなると)生きてる間になにしようかなという個人的な課題のみを抱えて生きることになる。私はたいしたことをしないのでそれはどんなことでも頓挫してもべつにいいというのが現在の感じているところだ。「生きてる間になにしようかな」という部分は一番変わりやすいのだけれど、まあかなり状況が変わってもここの(死に対する意識への)影響は20%くらいだと計上している。(子どもや愛する人がいても20%くらい。あとの80%は前述の理由により死んでもいいや判定ってこと)

 以前は自分の考えやなにかを誰かに伝えることが出来たら、そして断片的瞬間的にでも自分のように振る舞う人がいたら、それはもう自分みたいなものなんだとか思って、そしてそーいう人たちのことを自分の死後も生きる自分みたいなものかなとか思ってたんだけど、そーいう人がいなくてもべつにいい。そーいう人のいるいないは私の人生観とあまり関係がない。他人に対して自分の影響の有る無しも自分には関係がない。とにかくある時までは新しい人たちがどんどん出来ていく。それだけで素晴らしい。そしてそれがいつかぷっつり終わってこの宇宙ではもう永遠にそのようなことは起こらない。それはどうしようがなく、それでいい。さて、なにしよっかな。

作業日誌:他の誰かに届いてしまう

 昨日の続き

 ディスプレイを介してテキストを投げ合う間柄においては相手が(実際に)なにものであるかというのは全く問題にならない。そして「つぶやく」ということはその相手すら必要でないと言える。じっさいに私はインターネットで何かを書く際に誰かに宛てて、というよりはだれにも宛てず、強いて言うなら過去の自分に向けて書いている。結果的にはそれを見るのは未来の自分なのだけれど、文章を読むであろう相手の想定は過去の自分である。今の自分よりも幼い自分が、自分によく似た人間ですでに先を生きている者の考えることを人生のヒントにするように。しかしじっさいには過去の自分は今私が書いている文章を読むことはない(ように思えるが、私は少し怪しんでいる)ことから、私は虚空や無に向けて何かを書いていると表現してもいいだろう。無に向けて書いた文章に対して誰かが反応したとしても、反応したということが肝要であってその相手がだれでどんな人間なのかというのは関係がない(過去の自分でない限り)。しかしその時点で、その相手は過去の自分のようなものだと私は思っているように思う。たぶんシンパシー。

 それをするのは昔の自分のため、だけど昔の自分はもういないので他の誰かに届いてしまう。

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