紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

雑記:個に宿る知性だけでは非常に脆い

 徘徊防止用柵付きベッドを開発して座敷牢を復活させたと言われていた業者さん〔*1〕や、オタクがオタク趣味だけで迫害されたなんて聞いたことがないという若者の発言〔*2〕〔*3〕があったりと、人間が80年くらい周期で入れ替わる以上個体差だけでは社会は劇的には改善しない。三世代ぐらい経つと戦争のことも忘れ去られてしまうし、経験や歴史によって判断された良さ悪さを全て受け継ぐことはできないよなーとか。

 ある程度はそこを義務教育という古来からの体系化された知恵の伝授によって個人の知識として定着するようにできているけどそれも完全でない。同じ時代を生きている世代間でも知識や経験の差があり断絶もある。いまの20代にはLGBTQ+や多様性は受け入れるべき、ヘイトスピーチは悪だ、という姿勢はそれほど奇異でないあたりまえのものだろうけど、いま80歳でその感覚を当然のように持つには難しい人もいる。といって人類の歴史上繰り返してはいけないものリストを制作し全ての人類にインストールするというのも不可能だ。なにが言いたいかというと「ある個人にある知識を伝授して善き言動をとる存在となる」という思想には限界があるということだ。善もだいたいがその時代の流行りで根拠ないしね。

 だから個人の記憶や経験よりも大きな記憶として法が機能するのだという意見は、まあ機能してる方かな。でも法って一番目の大きな網であって細かな部分ではすり抜けちゃう。インターネット文献検索時代になってもどの個人もべつに法律や条例ひかないし(処せられはするけど)おおぜいの人々にバズるのはそーいう文脈でもないし、香港の政治が民主的かといえばそうでもないし、といって民主政治が正しいかと言ってもそうでもないが、立法政治のシステムに穴があればアウトだし難しい。

 という事で考えたのは法を個人を超えた大きな記憶として機能させるのはいいとして、個人には未知に対する作法みたいなのをインストールするのがいいのではないかと思っている。知識では全ての問題に対処できないけれど、答えのわからない問題や他者に個人としてどう対するべきかの「姿勢」は受け継ぐことができるんじゃないかとか。それはたとえば礼儀作法とか、理屈を超えて他人を敬うことであるとか、正直である事の価値とか、実際に生きている人が生きてみせるしかない部分でもある。

 手塚治虫が『火の鳥』で、人というものはいつの時代も過ちを繰り返す愚かなもの、だけでなく、なめくじでも同じように知性をもつものはいつでも愚かでそれによってその生命は滅ぶということを描いていたけれど、マジでやりようはないのか、過ちを繰り返さないのは永遠に生きているものだけなのか?だとしたら、個としてはいつも滅ぶ有限な我々がなにを永遠に生きるものとして未来へ受け継ぐ事ができるのか。それは「ある情報」でなくて「情報の扱い方」とか一個以上メタなものにならざるを得ないとは思う。これについてはもうしばらく考えます。

今週の一曲:Hyper On Experience - Lord Of The Null Lines

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 なにこれ?という感じの画像だけどRedbullの記事〔*4〕で最近知った94年作。Aphex TwinDJ PierreのBox Energyをリミクスしたのが2001年でおそらく作風の元ネタはこの辺から来てるのかなと。ただひたすらにアイデアを詰め込むシンプルに音だけのエレクトロニカ・テクノ。Aphex Twinはわりと過去のしょうもない(けど本人はムチャクチャハマった)エレクトロニック音楽を自己流で進化させていま出すという(歴史から見れば)正統的な人でもある。

脚注

*1:前 智美@ひのき家具製造販売福祉住環境コーディネーター@hinokifurniture 柵の高さ120cmのベッド 徘徊予防とかに #介護ベッド #ベビーベッド #子供ベッド #徘徊 #オーダーベッド #ベッド pic.twitter.com/vaEjx0dovZ https://twitter.com/hinokifurniture/status/1059327381356199936

*2:オタク趣味をあけっぴろげにしてバカにされたことなんて私の今までの人生で一度たりともないんだけど、オタクを理由にバカにされた人は一体どこの世界線に生きてるの?? https://twitter.com/Syaro_Sakuraba/status/1138998261174243329

*3:「オタクをバカにされる人って何処の世界線に住んでるの?」高校生の素朴な疑問に時代は変わったと安堵する大人たち『10代にはいにしえの話だと思う』 https://togetter.com/li/1366026

*4:知られざるUKレイヴクラシック 10選 | ジャングル | ハードコア | Red Bull Music https://www.redbull.com/jp-ja/10-lost-rave-classics

雑記:作者と作品をわけるのは難しい(ことがある)

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 浄土るるの『鬼』を読んだ。ある小学生の女の子と家庭の事情、そしてその女の子の所属するクラスとそのクラスへの転入生との関係が描かれるマンガだ。

 この作品を読んで、作品に対して思う事と作者に対して思う事の二つがある。この「二つある」というところがこの作品の特別なところだ。作者は17歳だという。
 マンガは絵と物語の総合として読むとシンプルな作品だと言える。結末は悲惨だが、現実にはこのような、もしくはもっと悲惨な状況はあるだろう。想像力としてとても特異なものというわけではない。露悪の跋扈する匿名掲示板での書き込みでも見られる様な話ではある。しかしそのある種凡庸な話をわざわざマンガにするというその「行為」を、私は見てしまう。

 作品で描かれる悲惨さを17歳の作者が描いているという事に対して、もう17歳ではない私は何かを言いたくなる。それはこの作品を通して作者を想像した結果であって、作品そのものに対してではない。しかし同時に評価というものはできるだけ作品そのものに対して行うものだという気もする。腕が折れてしまった状態でバッターボックスへ立っても骨折は評価に関係を持たせないように。

 だから私はこの作者に「いいぞ、もっとどんどん描け」と言うか、何も言わないかのどちらかをとる事になる。「いいぞ、もっとどんどん描け」というのは、私とこの作者のつながりはこの作品でしかありえないからだ。私はこの作者の環境やなにもかもに関係する事はできないが、作者から届けられた作品だけは、それを介して受け取りつながる事ができる。その際に作者のことをあれこれ想像するのは優しさとは違って、作品が崇高であればあるほど(その可能性はとても高いと思う)傲慢な事なのではないかと思うのだ。

 浄土るるさん、いいぞ、もっとどんどん描け!

今週の一曲

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Taragana Pyjarama - Ballibat 'TIPPED BOWLS' Album
土管。

小林秀雄抜き書き、自由と教養

小林秀雄『自由』より抜き書き

ハーバート・リードという英国の批評家の本を読んでいたら、自由という言葉について、面白いことを言っていた。英国人は、自由を言うのに、リバティーという言葉とフリーダムという言葉と二つ持っている。/リバティーは市民の権利だ。だが、フリーダムという言葉は、そういう社会的な実際的な自由を指さない。それは、全く個人的な態度を指す。/フリーダムが外部から与えられるというようなことはない。/自己を実現しようとする人は、必ず義務感と責任感とを伴うフリーダムを経験するであろう。例えば芸術家のフリーダムとはいうが、創造のリバティーとはいわぬ。リバティーとはフリーダムという価値の基盤に過ぎない。/言論の自由を与えよ、というプラカードの下に、いくら沢山な人が行進しようと、自分の苦心創作になる言論をだれも持っていなければ、自由の死骸を求めて、歩いている様なものだろう。/精神の自由は目に見えない。黙々として個人のなかで働いているし、またそれは個人にしか働きかけない。精神の自由を集団的に理解する事は出来ない。そういう自由が、実は、文化の塩となっているのである/

こちらも同じく小林秀雄『読書週間』より抜き書き

 教養とは、生活秩序に関する精錬された生きた智慧を言うのでしょう。これは、生活体験に基いて得られるもので、書物もこの場合多少は参考になる、という次第のものだと思う。教養とは、身について、その人の口のきき方だとか挙動だとかに、自ら現れる言い難い性質が、その特徴であって、教養のあるところを見せようという様な筋のものではあるまい。/私は、本屋の番頭をしている関係上、学者というものの生態をよく感じておりますから、学者と聞けば教養ある人と思う様な感傷的な見解は持っておりませぬ。ノーベル賞をとる事が、何が人間としての価値と関係がありましょうか。/私は、決して馬鹿ではないのに人生に迷って途方にくれている人の方が好きですし、教養ある人とも思われます。