紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

『3,500枚のCDを捨てた話』を読んだ話

おもしろく読んだ記事があるので紹介
tamaranche.hatenablog.com

 ブックマークコメントでもいろいろ言われてるので、気になった点と目につかなかった意見だけちょっと書きます。

私は権利関係には詳しくないので、新作をCDで購入するのと、ストリーミングで聴くのとで、結果的にどちらの方がアーティストに多くのお金が入るのかはよく分かりません。

ただ、5年前、10年前に、20年前に買ったCDを聴き続けてもアーティストに一切お金は入りません。そしてストリーミングで聴けば、聴いた回数分だけのお金が、それは僅かかもしれませんが、再びアーティストに入っていきます。

 たぶん20年前にCDを買うことによって払っていたアーティストへのお金、いまのストリーミングサービスではその1/xしかいまのアーティストには払ってないってことになるんじゃないかと思うけど私も計算してないしデータも集めてない。過去のアーティストはいいとして「今のアーティストには過去ほど払わなくなった」はあり得るかもしれない。

 たとえばメジャー/インディレーベルに所属してるだれか、椎名林檎(ってそうですか?)のCDを買うと本人へ約x円、本人以外の懐にy円はいる、spotifyだと本人へx円、本人以外の懐にy円はいる、というデータあれば議論ができそうなんだけど誰かにパス。

もしモノじゃなくなったり、所有しなくなったりすることで音楽を愛しにくくなるのだとすれば、Spotifyで聴いた新作を過去最高傑作だと思うようなことは起こらないはずです。

 「音楽を愛する」という言葉の定義がよくわからないけど、「愛する」ということと「聞く」/「評価する」はべつのことだから、最高傑作と評価するけど思い入れはない、あっさり手放せる、逆に駄作だけどなんとなく好きだ、ってことはありうる。

 あとコメント見てて、小学生へのCD300枚の譲渡という出来事がエモいと判断されているみたいなんだけど、これこそがCDフィジカルに買ってないとできないことってのがなかなか批評が効いてていい。

ことばの難しさ

 「体験」って個人差あるのはかなり複雑というか解決不能な問題で、ある人が「音楽を聴く」という言葉で表せる行為に含んでいる情報や、その行為から読み取る情報、と別の人が「音楽を聴く」という言葉で…(以下同)はかなり違うという実態がある。

 たとえば自分がそうなんだけど、音楽を聴くというデータのやりとりだけでなくて、レコード屋(棚)を自分の部屋にもってきたいという感覚があって、それって図鑑みたいなもので、自分の感情や情報をノックするきっかけを目の前に展開したいという欲望なんですよね。自分の見えるところに自分の大事なもの、好きなものを整理整頓して並べる、把握する、思い出す、連想する、自分の興味の変遷を可視化する、とかまあいろんな表現ができるんだけど、そこにはそういう個人化された欲望とブツとの結託があるんだけど、それも「音楽を聴く」という言葉に含んで使ったりする。ある人にはそのレコードショップにいる時間も楽しく感じているんだけど、その時間や行為も「音楽を買う」という言葉に含んでいたいたりする。難しいですね。

最後のリストについて

 いい!この300を選ぶんだから、のこりの3200も相当なリストだったと思います。よく集めたなあ…すごい、というのが第一の感想です。このようなリストが各人の記憶をノックして、評価できたり、この全体像である作者を想像できたりするのがやっぱ情報がひとかたまりになってる良さみたいなことだと思います。

あと個人的に

 あと個人的に言わせてもらうならば、Fountains Of Wayneのアルバムで一枚選ぶなら『Fountains Of Wayne』が最高。なぜならLeave The Bikerが入ってるから…

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 ほかにもたとえばジャケットやアートワークが素晴らしくて手放せなかったCDとかあれば知りたいなとか。最近のわざわざCD作ってるレーベルは紙ジャケや凝った作りになってるものもあるので…

 なんか文句つけてるだけみたいな記事になってしまいましたが記事やブコメ含めてとても楽しませてもらいました。どうもありがとう。

作業日誌:他人との関係性について

今週の一曲:DAT Politics - Re-folk

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 バンド名が異常にカッコいいバンド、バンド名が異常にカッコよければ音楽はどうでもいいんだけどバンド名が異常にカッコいいバンドはだいたい曲もカッコいいという好例、ダット・ポリティクスの2002年のアルバム『Plugs Plus』(名盤)からの曲。テクノロジー的、というかハードウェア、ソフトウェア的には今(2018年)の方がいいんだろうけど(違うかもしれない)この頃の方が音がよく、曲もいい。人類や社会は線的に進化しているというのは大ウソだと言うことが2000年前後のエレクトロニカIDMを聴いているとわかる。

他人との関係性について

 他人はたくさんいるけれど、一緒にいたいと思えるような相手と出会う確率は5%くらい、相手もそう思う確率を掛けるとすべての出会いからじっさいに一緒にいるような相手との出会いは1%くらいという体感である。ということから出会いというものは奇跡に近いのだけれど、出会ったあとのお互いの関係性は明確に言語化されていないと意外に脆いもので、たとえば「あの人といったいどーいう関係なの?」という質問はまったく普通の質問のようにみなが使っているし、そこで50歳差の二人組が「いや、なんか…友達」などと答えることに対する第三者の違和感がありありとある。本人たちにもあるかもしれない。

 というのも恋人や家族、教師や友達という言語化された関係性というものは互いに一緒に居る理由のように便利に機能する側面がある反面、お互いの関係性がなにもない(明確でない)と会うことがない(会えない)ことから、人間関係はだいたい社会の常識内(思い込みや先入観)で線が引かれる。幼稚園児に教わる大学生はいないし友達関係とはだいたいが同世代間のものである、などなど。たとえば、小学校教師が小学生と一緒にいるのは「教師と生徒」という関係性が成立する状況において自然ではあるが、生徒が卒業するまたは教師が退職すると同時に二人でいることの不自然さが姿を現してしまう。元恩師、元生徒という関係性では例えば遊園地にいるのは「相応しくない」ように人は感じるだろうけれど(そこには歳の離れた友人という見方は存在しない)その二人が結婚したあとでは遊園地にいてもおかしくはない(と感じる)。逆に言えば、お互いにまったく関係はない(一緒にいる理由がない)けれど一緒にいるという状態はかなり意味不明で高度だと思うのだけれど、しかし猫や犬が相手だと一瞬で成立している。やはりそこには言語(認識)のあるなしが関係しているのだろうか?

 ところで自分はだれともあまり一緒に居られないのだという認識が寂しいという感覚の根源的なものだと思う。(ほとんどの)人と人の間の関係で重要なことは、気が合うとか話がおもしろいとか頭がいいとかセックスの相性がいいとかぜんぶウソで、ただ一緒にいる時間がどんだけあるかというだけぽい。我々にはそれしか積めないようなのだ。

 家にきた犬や猫は彼らが世界で一番私にぴったりなわけじゃなく、家にきたから彼らと一番時間をつんでいるだけであり、そしてその時間の積み重ねが他の犬猫と違って彼らと私との関係を特別なものにしている。そういう意味では相手や自分がどんな人間性なのかということよりも、関係性こそが大事だと言える。関係性によって人間関係が出来上がる。極言すると他人というものは「時間をつむ気の有る無し」の判定を下した相手であり、「ない」場合は結局全部すれ違いみたいなものであり、それが本質ぽい。たとえ「有る」場合でも、ほとんどすれ違いであることに変わりはないが…

 あるていどの大人になると他人にとっての「役割」をゲットしないと他人(社会)に利用されなくなる。「教師」や「恋人」や「運転手」や「アーティスト/ファン」というのは他人からの利用のされ方の定義でもある。そしていつかお互いに積んでいく期間が終わると(それまでの関係が終わると)会ってもとくにする事もないし、はなすこともなくなる。そのとき、もう会うことはないなと理解はするんだけど、なぜかそこに切ないなという感情があって、それはよくわからない。

 だれかとお別れする際にいつも不思議な気持ちになるのは、この関係性の終わりによってお互いの時間も終わるということによるものだと思っている。お互いは変わらなくとも関係性によって何かが変わってしまうのだ。

作業日誌:なにをすればいいのかわからない という基本的な問い

 芸術系学校で美術を学んで(学んだのだろうか?)二十二の歳で卒業したときにふと思ったことは「さて、私はなにをすればいいのだろうか」ということだった。といってもその時に初めてそう思ったわけではなく、在学中からすでに「将来、自分はなにをすればいいのか」という問いは影のように常に自分にピタリと寄り添っていて(というか芸大に行こうと決めた時点でもう…)、大学を卒業することによって「将来」が「いまから」に変わっただけである。

 とにかくその頃からいろんな仕事をした…と言いたいところだけどそんなにしていない。私は時間を金に換えるくらいなら金がなくて寝ている方がマシだという体質なので、親の脛を太ももくらいまで齧ってやろうという心意気で出来るだけ働かずにやってきたものだからソローほどのたくさんの仕事を経験したわけではない。が、しかしそのいくつか就いて辞めてきた仕事の中で「私はこれをするべきだ」と思うようなものもなく、すべて「これをするくらいなら金がなくても家で寝てる方がマシだな」と思ってそれぞれにでかいバツ印をつけてきた。

 とは言えまったく金がないと死んでしまうし親の脚ももう限界という感じなのである程度テキトーに働いてある程度貯金がたまったら仕事を辞めて数年ぶらぶらする…というライフサイクルをなんとか回している。その間に本を読んだり絵を描いたり音楽を作ったり詩を書いたり本を作ったり女の子と遊んだりしている。と書くとなかなか気楽そうに生きているように思えるかもしれないが、やはり自分には常に「さて、私はなにをすればいいのだろうか」という問いがつきまとっている。今の生活スタイルはとても気楽とはいえないものであり、いつまでも続くとも思えない。さて、なにをすればいいのだろうか。

 さて、なにをすればいいのだろうかという問いは、言い換えると自分はなにをするために生きているのかと問うことである。バックミンスター・フラーは無一文で講演に呼ばれた先で学生に向かって「エントロピーに反するように働けばあとは宇宙が面倒を見てくれる」と言い放った…のだが、この宇宙に無駄をまき散らさずにいったいなにをすればいいのだろうか?スパム・メールを送るバイトなんてエントロピー全開で論外である。たとえそうでなくてもこの社会や他人に関与したいという欲求や必要性を感じないわたしは、ほとんどすべてのことに他の人を差し置いて自分がわざわざそれをするというほどの価値や意味を感じないまま、エントロピカリーな営みに弱く参加し、いまもさまよっている状態であるといえる。

 とにかく、私は学校を卒業して十年以上も経つのだが、あのときの「さて、なにをすればいいのかな」という状態から一歩も進んでいない。その問いを保ちながらいろいろ試したり、休んだり、あれこれ考えたりしている。これは心愉しい状態ではないが、極めて個人的な問題をリアルに抱えつづけて生きているというのは、まあ最悪だけど悪くないと(ムリヤリ)思っている。この問いがある故に、私の「生きる」という状態は「考える」とか「探す」という動詞と常にある。いつかこの考える/探すということがなにかにつながるとしたらやはりこれを続けるべきなのだと言えるし、もしかしたら考えることや探すことそのものが私の人生ですべきことなのかもしれない(最悪…)と自分を逃がさないように言い聞かせ、なんとか今日も生きている。

 なにをすればいいのかわからない という基本的な問いは、その問いがそのまま自分の…いや、やっぱりよくわからないな。

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