紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:2022.12.18

 エロな広告よりも大人が真顔で嘘をついていることの方が悪い。よってほとんどの広告やコンテンツの方が悪い。嘘をまったくつくなとは言わんが嘘に対しては「嘘だ」と誰かがちゃんと指摘する必要があるとは思う。また嘘をついたり、理性的とは思えない言動があっても信用を失ったりしない(ように見える)のがインタ〜ネット/SNS空間(での著名人の振る舞い)を悪いものにしているんじゃないか。

 平行宇宙というのは他人の(意識から見たこの宇宙)のことであるのですでにたくさん実在している。観測もできていると言えるのかはわからない。

 映画『インセプション』のような夢を自前で見たのだが、夢の中では時空が一定でないのでそもそも複数の夢を入れ子構造にする必要がない。あれはエンターテインメント、映画のための構造である。

 (宮﨑駿の監督作品、映画『君たちはどう生きるか』が2023年7月劇場公開という報を受けて)
 とにかく時代が最悪であればあるほど同時代に生きている偉人の存在がアースシーにおける竜のように重みを増してくる。こんな時でもあの人はどこかで何か大事なことをちゃんとしているはずだと思える。宮﨑駿(とその映画)ってわたしにはそんな感じの存在である。
 たとえばAphex Twinと同時代に生きてるのも喜ばしいことなんだけれども、テクノ音楽家はまあ社会との関わりとかどーでもいいという存在であり続けることが可能だし、じっさいテクノ音楽なんてマジで抽象絵画くらいこの社会と意味ない地平で成立しているから、この時代にこれを作っていたという文脈ってとくに生じない。もちろんそのような作品を作っている人もいる。ANOHNIとか。
 ところでなんとなく、どんな映画になるのかは見当もつかないが『クラバート』は読んどいた方がいい気がする。

引用:サイード『知識人とは何か』

〝音楽について彼が考えるありうべき基準は、もっぱらシェーンベルクの難解きわまりない作品にもとづくものだった–––シェーンブルクの作品について、アドルノのいわく、それは、聴かれることもなく、また聴かれることすらこばむという名誉ある運命にめぐまれていた、と〟

今週の一曲:Warp Records - Artificial Intelligence (Full Album)

youtube.com
 Warpってもうアルバム通してアップロードするようになったのかな。"IDM" の "I" の元になった30年前の記念碑的な作品のリイシュー。

 

作業日誌:2021年についてのメモ

 2021年は夏に手術をした。大きめの病院へ入院したんだけど手術はうまくいかなくて「リスクの低いやり方でもう一度やっても成功する確率が低い、もうすこし悪化したらリスクがあるやり方で再度手術しよう。それまでは様子を見ましょう」という方針になった。
 手術が終わって外科の病棟に数日入院していたんだけど、術後のダメージというか体への負担がけっこうなもので処方された痛み止めに加えて持参した痛み止めをかじりながら数日間なんとか回復を待っていた。できる限り眠って時間を流そうとするのだがずっと寝ているし痛みもあるのでなかなか眠れない。世の中を呪いつつじっとしていると同室者の様子もカーテンで仕切られてはいるがなんとなく耳に入ってくる。同室者の一人は顎の手術をしたようで数日して痛みを引きずりつつ退院して行ったがもう一人はどうやら大きな背中の手術をしたらしい。昼夜問わず毎時間看護師さんが様子を見にきたり、熱を測って39℃で「少し熱が下がって楽になりました」とか言っていて、気の毒でなんとも言えない気持ちになった。私の状態は(たぶん)マシな方で同室者はもっと大変そうだということがわかった。当然私の方が先に退院することになったのだが自分より大変な人はたくさんいるのだということをひしひしと感じた。とにかく健康がいちばんの財産である。もう二度と手術は嫌だ。

 この地に引っ越してから就いたバイトは相変わらず続けているのだが職場の人数も減り、そして労働環境と雇用条件があまり良くならないので私は沈みゆく船と呼んでいる。そのうち辞めるかもしれない(積極的に長く続けようとは思わない)。辞めるついでに今住んでいる土地もとりたてておもしろいわけでもないので引っ越したいなとか思っている。パリかギリシャのどこかに行ってみたいけどどうかな。職の関係で今年も何人かの死に触れたが今年は逆にコロナが流行って頻度は減ったくらいだ。死というものはほんとうによくわからない。他人のそれに触れるからといって自分が上手に取り扱うことができるというわけでもなさそうだ。この辺りについてはまたちょっと書き足したい。

 休日の調子の良い日はスケートボード・パークへ行ってスケボーしている。去年の6月くらいから始めて一年半ほどになる。スケボーは高校生の頃もやっていたのだが、やっと高校生だった頃よりも上手くなっているという段階になったかなという感じだ。高校生の頃は受験期にスケボーしていて右腕を骨折して美大の試験を左手で受ける羽目になった思い出がある。今年も三度ほど骨折したけれどスケボーとはそういうものなのでしょうがない。二度折った肋骨はもう回復しているが左手の手首と甲は今でも痛む。何度か病院へ行って、骨折してもだいたいは(変な折れ方をしてなければ)病院でできることは固定くらい、あとは回復を待つしかないということを知って以降はほったらかしにしている。スケートボードというものはフィギュアスケートと同じく、そして他のあらゆる物事と同じように上手くなるためにはこける(失敗する)ということを繰り返すしかないのだ。

 家にいるときには何をしているのかというとほとんど何もしていない。スケボーのビデオをYouTubeでみるか、90年代後半〜00年代前半の未だ聴いたことのないエレクトロニカYouTubeで探して聴いているか、面白そうな本をamazonで買うか(ほとんど見つからないし買っても読んでない)というくらいだ。絵は全然描いていないし以前作っていたノイズやテクノ音楽も作っていない。もう本当に何もしていない。消費のみ、たまにスケボーするのみ。そういえば家ではiMacadblockを噛ませたfirefoxYouTubeを眺めていたのだが、現在使っているガラケーの3Gが来年三月に廃止されるということで事前にiPhoneを買った。iPhoneのような最新スマホ機器でYouTubeInstagramを眺めるととてつもない広告の嵐で辟易とした。といってPremiumにするほどYouTubeに時間を使うつもりもないのでスマホは自分にとってはやはり必要のない端末だなという思いを持った。

 そのほかには庭の草花をチラ見したり夏場はプールに入ったり、家の周りをスケボーしながら散歩したり、川辺で土草を瓶に詰めて部屋で成長を眺めたり、太陽の光の移り変わりをしみじみ感じたりというこれまでなら「なにもしてない」と解釈しそうなことをするようになったかもしれない。あと身近な場所に牧場のような場所があって、最近そこにいるヤギや馬にも会いに行くようになった。逆にコロナ以降人間には全然会っていない。酒も飲んでない。

 実家の老猫は今年の夏も無事に越してなんとか生き延びてくれた。彼がいまも生きていて、一緒に時間を流すことができるというのはかけがえのないことだ。ほんとうにうれしい。

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 これはあくまで自分のメモなのでほかにもいろいろ思い出したら今日中に書き足したい。とりあえずこんなふうに今年は過ぎていったという感じだ。

今週の一曲:BLEACHED "THINK OF YOU"

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 スケボーのビデオに使われていて知った曲。憂いがあっていいです。それではまた来年…

雑記:お金ってなんで必要なんだっけ

 「宝くじが当たったら、とりあえず貯金して仕事は続けるけれど、いつでもやめられると思えばだいぶ楽になると思う」というような話はどこででも聞くんだけど、ということは働かなくてもいいくらいのお金があっても働き続けるということで、それだとお金のなさが今の生活の嫌さの基盤となっているわけではないということがわかる。ふと、お金がたくさんあるとなんで幸せになるんだっけ?とかよくわかんなくなった。さしあたり衣食住の問題はないとして…(生活保護という制度も一応あるにはある)。逆か。お金がないとなんで不幸せなんだっけ?

 たぶん「一生何もしなくていいという状態じゃないから(何かをしなくちゃならないから)辛い」ということになると思うんだけど、そう考えるにはやらなきゃならんことが嫌だというものが日常的具体的にあるはずで(仕事とか雪かきとか)、でも生きていくためだけにやらなきゃならんことってなかなかなくならないよな。歯磨きとかお風呂に入るとかスーパーに買い物に行くとか。そして、いつか死ぬこととかなにをしてもつまらないこととか誰とも分かり合えないこととか自分が生きている意味も価値もないことはどうしても解決できないじゃない。

 最初に戻ると、金が大量に手に入っても明日も今日と同じことをし続けるなら(たとえば仕事とか)金はけっきょく必要ないってことじゃないですか。

 飲み物食べ物着てる服、住んでるところやデートにかかるお金のゼロが二つ増えても平気で生活していても、それでなにもかも満足で最高の幸せで一生過ごすということにならないのは目に見えてるし、大金持ちでも夜中にティッシュがなくなったら自分でコンビニまで買いに行かなきゃならないのは変わらない。金で買えるものってあんまり大きく幸せ/不幸せに関係しないんじゃないかと感じるんだけどどうなのでしょうか。

 たとえば「一億円払ったらあなたの頭の中にある全ての疑問や考えに対して、他の人類全員が持っている知識や概念やアナロジーを全部統合して参照し明確クリアに考えることができりようになりますし、それを適切に論理的整合性を保ちつつ表現形式によっては芸術的にでもアウトプットする才能を付与します」とかならちょっと考えるけど…

 とここまで書いて、ということは私は、人はもうちょっとマシな人間になろうとするということにしか価値や意味がないと思ってるんだな。そしてそれは金では(あんまり)チートできないとも思ってるぽい。なぜならいまの自分が過去よりちょいマシな人間になってるとして、それはかつて数百万円するアホみたいなワインを飲んだからとか、20万円もするスニーカーを履いているからとか、iPadを持ってるとか、MITを卒業したからとかではぜんぜんなくて、過去から今までの日常的で地道なふつうの生活の積み重ねだという実感があるから、今の身の回りのものでやっていくということを受け入れている。

 と同時に、自分がちょっとくらい過去からマシに変化していても何の意味も価値もないし、ふつうにまいにちやってることもそれがうまくいっても失敗しても何もしてなくてもマジでなんの幸福もない。私が何をしようが何もしなかろうが、とにかくあるとき宇宙のある一片に勝手に芽生えた意識が一瞬だけ存在してまた消えるだけという事実に唖然としているという側面も同時にある。そしてかだからか、わたしは基本的に何もやる気がない。何かをやる気があれば、そしてそれについてお金がどうしても必要であればお金があったほうがいい。そーいう人のところへお金がいくような社会であって欲しいと思う。

今週の一曲:Polonis & Proc Fiskal - In Da Glen - Grime Instrumentals

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9/24にニューアルバム(『Siren Spine Sysex 』)がHyper Dubから発売となったProc FiskalがPolonisと作った一曲。『Siren Spine Sysex 』ではフォーキーでハイファイな音がメインで、こーいうエレクトロ・ベース・悪っぽい音楽はやってなかった