たとえばふと思い立って「うっし、ちょっとビーガン生活始めてみるか」とかやってみるとする。まあ自分一人が社会に与えるインパクトなんてほぼゼロなので、あくまでも個人的にちょっと試してみるとする。で、一年、二年と続けて、はたから見れば「そーいう主義のひと」と捉えられるかもしれなくなるとする。で、たとえばふとモンゴル(どこでもいい)でも行ってみるかとかってフラッと行って、どっかのパオとか遊牧の民の集落に遊びに行くとする。現地の人に日本からよくきたねとか、んじゃ今日は泊まってけとかって話になって、晩ごはんに歓迎のしるしにたとえば集落で飼っているヤギを一匹さばいて供されることになるとしましょう(そんな風習があるのかは知らん。テキトーです)。
で、そーいうときに「あ、ごめんなさい私は実はビーガン野郎なんで、肉料理はノーサンキューです〜。気持ちは嬉しいんですけれどね〜すんまへん」とかって拒むのは、私はなんか違うんじゃないかなと最近思っている。自分の、あくまでも個人的なスタイル、考え、主義主張をどこにでも持っていって、どこででもそれを機能させようとするのは、不自然なことなんじゃないか、よくないことなんじゃないかと。
自分がどうあるべきか、どんな考えをしているか、自分の「個人としての完成度」みたいな部分を個人的に追求するのはいいと思うんだけど、と同時に、人ってどうあっても他人の存在や社会というものを前提している。だれだって社会(おおくの他人)の中で生きていくことになる。社会の中の個人(イメージとしては自分の周りに壁を作って囲んでいるような)としてよりも、どう自分を社会に合わせていくかという部分の方が、じつは人という存在としては基礎で重要ぽいなと思っている。まあ自分一人で自分の理想やるのは誰だってできる簡単なことでもあるとも思う。
なので、「自分はこういう人間(主義、考え)だから他の人(文化、風習)を拒絶する」みたいなのは、じつは大事な部分をおろそかにしてつまらない部分を大事にしてるんじゃないかなと感じている
自分をあるていどあやふやに保つ、個人をやれるところでは個人をやって、社会をやるところ、社会と個人がぶつかるところでは必要以上に個人であることを主張しすぎない、あたりに最近は理想を置こうとしている。まあ私にとっては我が強かったし、そっちのが難しいからだったんだけど。
個人としての存在よりもその社会の中の存在であるということの方を基本に据えとかないと、自分のショボさを感じる人間ほど病気になっちゃうんじゃないかとかも思わんでもない。
まあとにかく、最近は個人的に自分を追求し、社会の中では社会の中の存在であるということを意識することにする。それだけ。
今週の一曲:Overmono - If U Ever
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Fabric Mixでお披露目されたOvermonoの新曲。ピースフルで物悲しい最高の曲。今年ベストかもしれない