紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170701 - みんなが好きなもの、私が好きなもの、世界一のもの

みんなが好きなもの、私が好きなもの

 不思議に眺めることのひとつにインターネット(SNS)にはほぼ無数の人間がいるけれど、その無数の人々が興味をもつ対象は無数というわけでなく、ばらけない。それ以前のテレビや雑誌のようなマスメディアに映る(比較的に)大規模な有名な人や事象から、ただただ小規模な有名人、事象に枝分かれしたという感じだ。とある町のとある個人にマジで個人的に興味を持ち続けるような人はあまりいない。個人化、個性化というよりは、小規模な社会化という状態に見える。

 話は飛び飛びになるが、自分の欲望というのは本来とても個人的なものだから、それを素直にもちつづけている人は簡単に知っているのだが、ある状態の人には見つけにくい。そして、多くの人がいいと言っていることはものすごくわかりやすいし、けっこうそれも気持ちいいものだ。わかりやすいというのは、それを楽しむ機会が多くて、それを楽しむ手本も豊富にあるということだ。もちろんそもそもがとても個人的な欲望をもっていることそのものが珍しいということもありうる。人類皆が正直に活動しているわけではないのでわからないけれど。

 個人として○○が好きだというのと、○○好きの一人というのは全然違うのだけれど、といってそこに自覚的な人もわりと少ないのかなという印象もある。傍から見てるとみんな一緒に見える or 傍から見てもあの人は全く異質に見えるの両方がいる。

 また話をズラして考えると、恋愛とは他人には羨ましがられないというところにその本質があると思う。だれもが価値を置いているものでなく、この誰も知らないようなものが、なぜか自分にとってとても大事なのだというところに妙味がある。しかし恋愛というものに社会性を含む人も多々いるので(スポーツの部活のマネージャーは補欠と付き合わない)それはそれでいいのだけれど、私はなにか個人的にできることに関しては個人として振り切るのがいいと思っている。それは芸術であれ、人生観であれ、恋愛であれ。


 話はまとまらないがオクラの話に移る。

世界一のオクラ

 父親のつくったオクラが食べられる季節になった。畑からもいで土を落として水でさっと洗ってしょうゆをちょっとかけてそのまま生で食べる。これ以上のものはないというくらいに美味しい。しかし実際にこれ以上はない…というか食べ物とは基本的に素材が一番で、その上にのせるものの差はそんなに出ないものだ。世界一のものが自分の家の庭にあるものなのだ。

 ところでこれは食べ物だけでなくいろんなものにも言えることでもある。たとえば家にはうちの猫がいて、instagramには世界中から世界で一番いいねを得てる猫がいて、でもうちの猫が世界で一番だ、私は大事なのだということ。豊かさや贅沢ってものは上限その程度のことであり、そして身近に見つかるものなのだなと。

今日のBGM : Joseph Nothing feat.七尾旅人 *Ballad For The Unloved

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 アルバムを買って15年くらい聞いてたけどこれ七尾旅人の声だったんですね。知らなかった。これもAphex Twin / Squarepusher以降のエレクトロニカ華やかりし頃の曲です。Joseph Nothingという名前ですが日本人です。ちなみにこの人の弟もCOM.Aという名義でエレクトロニカをやっていて名字が吉田なのでエレクトロニカ界の吉田兄弟でした。とある番組で「このあと吉田兄弟のライブ!」と出たので二人のユニットROM=PARIかと思いきや三味線で有名な吉田兄弟だったので笑った憶えがあります。

作業日誌 : 170630 - 星の王子様についてもう一度/考え方というよりは習慣

星の王子様についてもう一度

 作業の合間に本屋へ行くとサン=テグジュペリの『Le Petit Prince(星の王子様)』の文庫が四冊あった。岩波の(内藤濯の)翻訳権が切れたので別の出版社からそれぞれ新訳版を出したものだ。何気なく読みくらべたりして、そのうちの一冊を買って帰って読んだ。

 星の王子様は小さい頃に読んで、よくわからないところとはっきりよくわかるところが混在していて不思議に思った憶えがある。かなり変な本だともいえる。大人になって読み返してもやっぱり変な本だなという印象だ。変というのは、ユニークであり、謎があり、複雑であり、単純でもあり…と言葉ではうまくいいあらわせないということである。これは宮沢賢治の作品にもいえる。星の王子様も宮沢賢治の童話もかなりの数の人がそれを読んでいるけれど、ほとんどだれもよくわかっていないというかなり不思議な存在である。まるで宮﨑駿の映画のように…というとこれは当たり前の話であって、宮﨑駿が彼らの影響を受けているのだから逆である。

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

 岩波新書の『本へのとびら』で宮﨑駿が岩波少年文庫を50冊紹介しているのだけれど、その一冊目が星の王子様だった。とても短い紹介文で素晴らしい文章だけれど、引用はしない。最後に「一度は読まないといけません」と書いている。

 誰かにお勧めの本を聞かれたときに、星の王子様のようなだれもが知っているような、もしくは子供のときに読んだだろうという本は率先してすすめたことはないけれど、といって読んだことある?と訊いたこともあまりない。一度は読まないといけない本。私は「これをせずに死ぬのは勿体ない」という文脈によって紹介されるものにあまり興味はないが(鑑賞すべき名画、見るべき絶景、食べるべき料理、etc...)『星の王子様』を「一度は読まないといけません」と紹介する大人がいるというところに、人間というものの豊かさを感じる。大事なものはすぐ近くにあるのだ。

汚れた本を買う

 ところで本屋で別の本も買った。以前から買おうと思っていた本を見つけて、さっと手にとったら表紙にものすごい折れ線が入っていた。むかしは欲しい本でもすでに汚れがあるとか店頭に置いてあったために焼けているといった使用感があると嫌がってその店では買わなかったけれど、最近は率先して買うようになった。他の人もそのような本をわざわざ買うのを避けそうな気もするし、となると「こいつ、行くとこあるのか?」とか思って、んじゃ私が引き受けようと。そもそもたいしたことじゃないし、自分もかなりの中古品みたいなものですし…

 しかしこれは私が本にとっての聖人君子だからとか素晴らしい考え方をしてるとかじゃなくて、ただ他人から自分に乗り移ってきた習慣のようなものである。「引き取り手のなさそうなものから引き取る」という姿勢はあるところには普通にあって、それは普通のことなのだ。スーパーで卵を買う時も、自分だけでなくてこの世界全体の無駄を減らすという視点があれば、消費期限の近いものから買うようにして早めに使えば廃棄する数を減らすことが出来る。保健所へ動物を引き取りにいく時でも器量のよくないものから引き取る。アメリカにいる時はこーいう感覚は普通に市民に具わっているように感じて(友達がさも当然のようにそうしていた)わたしはそれをただ「いいな」と思ってマネをするようになったのだと思う。

 ある考え方や姿勢というのは自分でイチから作り出すのは大変だけど、そしてそれは素晴らしいものに思えたりもするけれど、あるところではただ普通に人々に具わっている。そーいう部分を感じると一人でただ考えるってのは世界が狭いなとか人類の種としての知性は個人の能力を圧倒的に超えているなあなどと思いますね。

今日のBGM : Kazumasa Hashimoto - Echomoo

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 これもエレクトロニカ華やかりし2000年代前半に出会った曲。エレクトロニカというジャンルにおいては日本人のアーティストもかなり繊細でグッドな作品を作っていて、アメ村のタワレコでもシスコ(懐かしいですね)でも国境は全然ないって感じでそれが普通だった。

作業日誌:170629 - アーティストという免罪符

アーティストという免罪符


 一応引用も

不良なのがHIP-HOPだからとかじゃなくて、そもそもアーティスト全般に世間一般の常識を説くのが間違えてる。
逸脱してんだよはなから。
本質的には好きな事だけやって飯食ってんだぞ。マトモな訳無いだろ。

 この発言をしたひとはラッパーらしいのでこの発言まで何らかの文脈があってそれに対して言ってるのかも知れないけど、今回私はあくまで一般論として考えてみたい。というのもこの手の考えというものはいつだってだれに対しても起こり、そしてくり返していることなのだ。お笑い芸人、芸術家、音楽家、棋士、エトセトラ。

 で、私は上記の考えには基本的には同意するんだけど、いろいろ細かなところではっきり線引きする必要もあると思っている。アーティストとして何が許されて何がアーティストであろうが許されない領域なのかとか、だれがアーティストだといえるのかとか。

 だれがアーティストだと言えるのか問題はかんたんに言うとモーツァルトゲーテが創作を続けられたように、エルデシュが数学を続けられたように、貴族やまわりの数学者が彼らを守ったという出来事が示す通り、どちらかというとアーティスト自身を常識との摩擦から守ろうとする人たち(もしくは多数の市民)が現れている状態にいる人のことを「免罪符ありの公称アーティスト」と呼べるんじゃないかというのが大意です。その状態であれば自らアーティストを名乗る必要もないのだけれど。それ以外の人は「(免罪符なしの)自称アーティスト」とする。

 なぜなら、定義としてアーティストという肩書きそのものが「世間一般の常識から外れたことをしてもいい」免罪符になるなら、アーティストになる…というか看做されるのにある程度の審査が必要になる。だれでも名乗れるならだれでもが無法を行えるということで、これは社会としては防ぐべき状態だから。しかし現状だれもが「アーティスト」を名乗れる以上どうしても「お前が言ってるだけじゃん」「いつお前はアーティストなんだ?」と思われてしまうんですよね。「野菜買うときくらいアーティストじゃなくて一般市民として買えるだろ」とかね。

 野菜すらふつうに買えない人(エルデシュとか)は、やっぱまわりにそのひとを助ける人が現れる(現れないと死んでいく)。エルデシュの数学の才能は人類に必要だとまわりの人間が思ってるんだからこれは当然の帰結だ。エルデシュは四六時中エルデシュだったからまわりが常にサポートしたって感じだけど、でもエルデシュや学者になるよりはアーティストを名乗る方が簡単だから、アーティストだからという免罪符はほぼ無効って感じの現状になる。

 しかしそこまで特別な才能でなくても、ちょっと変な人を変なまま守るのは社会にとって大事なことだと個人的には思います。

 というのは基本的にはアーティストという人種はほかのだれもしない(できない)ような特殊な領域へと到達してその成果を持ち帰る人であって、そのような難事業を成し遂げるためにはやはり普通でない、というか普通であるという制限を外す必要があることもある。ないこともあるけど。特殊な人間がその特殊性故に特殊な作品を作るというのはとても素晴らしいことだと思うので個人的には応援したい。ただその場合、ぜったいその仕事はユニークであれ、他のだれも出来ないことであれよと思われるのは当然だ。それで誰かと似たようなものを作っていたらそのひとがそれをする必要性がなくなってしまい「才能ないからやめろ」と思われてもしかたがない。だから傍から見てそのひとの業績が「いや〜、それけっこうだれもができるようなことなんじゃないの」とか「その程度の作品ならあなただけが特別やる(ために社会が支える)必要もなくない?」と思われるとアウトなんだけど、たとえごく少数の相手でも「これはあなたじゃないと出来ないことだよ」「サポートするよ」と思わせることが出来たなら、それは素晴らしいことだしアーティストと言えると思います。まあべつに他人の認証が得られなくてもみんな勝手にやればいいと思うけどね。

ジャンキー (河出文庫)

ジャンキー (河出文庫)

 ジョージ・オーウェルが自らロンドンやパリの貧民窟へ出入りして書いた『パリ・ロンドン放浪記』やバロウズ自身の麻薬生活を描いた『ジャンキー』、アンリ・ミショーの阿片の摂取の効果をデッサンした作品など、その人の社会からの逸脱故に出来た作品が多くの人に受け入れられる(普遍性にまで達している)というのは、とはいえマジで歴史上のレアケースなんで(無名のまま死んでいった人たちが大量にいることでしょう)、誰も彼もの逸脱を許すようには社会は出来てないというのが現状ぽい。まあそもそも彼らの逸脱も社会から許されて行われたわけではなかったしジャック・ロンドンはプロ根性と言えるケースであってべつに反社会的なことをしているわけじゃないですが。なので、というかどっちかというとアーティストとしてアーティストを名乗って頑張るには「他人から何言われても私はやるんだよ」という姿勢をもって制作するのが基本である。厳しい道ですね。

 なので「○○になるような人間は普通じゃないんだから普通であることを要求するな」という意見が噴出することは歴史上もしくは様々な業界に対してけっこうあるんだけど(芸人、芸術家、棋士、作家、いろいろ)それは作品や業績としての評価に対してであるべきであって、人間性の部分は基本的には他の人間と変わらず評価されてしまうのが現状で、それは基本的には正しい(もっとマイノリティに対して寛容な社会であって欲しいとは思いますが…)。私の観察ではその「自分の普通さ、できなさ」がどうしても「社会の常識」と摩擦を起こすという人間が、どうにかその個人的な苦悩を異常な技術や発想を介在することによって普遍的な表現として消化する、それが芸術であると思うので、社会に完全に受け入れられるのも考えものだとも感じますが…これは難しい問題ですね。それを気に病んで自殺したりする人もいるわけだから。

 極端な例のフェアな認識としては、麻薬をやっても人殺ししてもアーティストとしての作品の評価には関係ない。でもその罪は社会の一員として問われるよ、ということでしょうか。そして基本的には、自称アーティストなら自分の社会生活の出来なさによって起こる摩擦は自分の作品によってねじ伏せるしかないと思います。これはかなり自称アーティスト側が不利な条件だと思いますが、ある意味では自由であるとも言える。でもデヴィッド・リンチAphex Twinエルデシュも作品も人柄もかなり特殊だけど、自分が特別なので社会はそれを認めよという姿勢ではないですね。謙虚さは持ち合わせている。

 私自身はそのような謙虚な巨人を見習って社会にちゃんと片足をつけて制作していきたいと思っています。自分の作品だって自分一人で出来ているとは私には到底思えないからです。

今日のBGM : [PV] 呂布カルマ - 俺の勝手

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 これを機に初めて聞いてみたけどブルーハーブを彷彿させるトラックと声のトーンがいいですね。他の曲も聴いてみます。見た感じわりとまじめそうな人ですね。Twitterは多数との議論にはあまり向かないてのはあるね。