紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170628 - いろいろむずかしい

デマや勘違いや解釈について

 SNSで見かけるデマや他人の勘違いやデータのうがった解釈など、誤った情報に触れたときに自分がどう対処するのかというのはなかなか難しい問題だ。たとえば日常生活だと、目の前の道に落ちているゴミは拾うことが出来るしそうルールづけることも出来る。自分の目についた範囲で自分の出来ることをする、ということが出来るのだけれど。ネットだとその「目についた範囲」の際限がないんですよね。友達とか知り合いと話してるときに間違った解釈や情報について話していたら、まあ訂正はするかなとは思うけど。

名前

 名前って主に他人が使うものであって、他人にとってはまずそのひとを識別するための道具だから、使いにくい(読めない書けない変換できない)ものを一生他人に強制する名付け人に怒りが向くのはまあしょうがないよなとか思った。怒るのが正当なのかはおいといて。
 まあ何でも使いにくいデザインはデザイナの責任ということかな。エレベータの開ける閉めるボタンのわかりにくさもデザイナの責任だよな。

作業日誌

 今日は事務手続きがいろいろあって大変だった。疲れた。移動の準備もしなければならない。準備って嫌いなんだよな。なんでもかんでもその瞬間に全部やるという世界が最高なんだけど、それはものすごく金がかかる。安いチケットは予約しないといけなくて、ホテルに泊まるにも予約が必要だ。友達に会いにいくのでも前もって連絡しないといけない。ふん。つまらん。

今日のBGM : The Fools - Psycho Chicken

www.youtube.com
 とくに深い意味はないです。

作業日誌:170627 - 成功のしかた、天才のつくりかた

成功者の作り方

「子供を藤井聡太にしたい親」への助言――石田直裕四段の例に見る (HARBOR BUSINESS Online) - Yahoo!ニュース

 我が子を藤井聡太にする方法とは?という考えはアホらしいけど問い自体はおもしろい。藤井聡太というのは現中学生のプロ棋士の方です。

 たとえば子どもを100人くらい作って彼らすべて幼少期から将棋をさせる、するとそのうち将棋の強い弱いが見えてくる。強いものを集めてさらに彼らに将棋をさせる。これをくり返すとその集団の中の上位はとても強くなるはずだ。そしてそのなかから上位の見込みのあるものがプロになる。他は全部ハズレということになる。ってこれは実際に奨励会という団体が血縁と関係なく日本全体という規模ですでにやってることなんだよね。もちろん彼らは未来の藤井聡太、というか将棋の強い人を育てるために現状最適化された方法でそれを行っている。その中でも藤井聡太になれずに、落ちこぼれていく人たちが大量にいる(いた)わけだ。

 「これをすればこうなる」という領域をとっくに超えた問題に対して「どうすればいいのだろうか」とトライエラーをくり返しながら問いつづけることには意味あると思うけど、ただ傍からみてる側から「そこになにかいい答えがあるんでしょ」とか考えるのはちょっと認識が甘いし失礼だなとも思う。

 これはベンチャー企業がどうすれば成功するか?という問いも同じようなもので、私としてはほかに99失敗するものがあれば一つはという考えしか出来ないと思っている。これもやはり、その「一つの方法」さえあればいいって考え方はうまく機能しない。どの道にもその後あまりにも多くの選択肢が降り掛かるんだから。

 天才とか突然変異みたいなのって結果的にあとからその存在が確認できるだけで「ここにいるこれをどうすれば」と考えて出来るものじゃない。たとえばあなたが生きていることは、今までに死んだ人からすればとてつもない成功だと言えるはずだ。あなたが生き残っているのはあなたが生き残る才能があると看做されるかもしれない。そこで「あなたが今日まで生きのびてきたのは(死ななかったのは)どうしてですか?」と訊かれても、なにも答えられないでしょう?「でも、不慮の事故や病気で死んでしまった人もいるわけでしょう?あなたとどう違うのですか?」と食い下がられても、ただ今まで自動車がつっこんでこなかった、ただ私は死ぬような病気にならなかったとしか言えない。

 なにかの理由や原因というのはとても確定の難しい概念で、そう思われているものも、これが理由だと信じている人の意見でも、ほとんどそれはただの解釈であって、真実ってわけじゃないんだよねというのが私の実感ですね。

お金がなぜか大好き

 というのは資産としてではなくて紙幣の話です。コインも好きだけど紙のデザイン、一枚の印刷作品としてのおもしろさに惹かれる。日本のお金ってパッと見一枚の紙に見えるのだけれど(実際は違うと思うけど)グアテマラケツァールという単位の紙幣は複雑でびっくりした思い出がある。

 20GTQ(ガテマラケツァルと読む)が一番きれいで下の画像のように紙の中を別の素材の紙が編みこまれているみたいになっている。この写真ではわかりにくいが編み込まれた紙はピカピカ光る鮮やかな紫でとても綺麗だ。しかも逆側(表側)に出てないので何枚もの紙を重ね合わせているのか、どうなっているのかちょっとわからない。

f:id:saigoofy:20170627162358p:plain

 見れば見るほど複雑な構造なので偽造はムズそうだなと思った憶えがある。逆になんで日本の技術であんなにシンプルな作り(に見える)でグアテマラでこんな複雑なことしてるんだと不思議に思った。こーいう紙にいろんなものを施す技術ってなんていうんだろうか。製本技術じゃないよな。製紙技術っていうのかな。透かしを入れたりていうのは印刷なのかな。よくわからん。知らんことは永遠にあるな。

画像は http://goldium.net/2013update/GTQ.jpg のものです

今日のBGM : Flogging Molly - "Drunken Lullabies" (official video)

www.youtube.com
 ところでこのビデオで描写されている休日の昼下がり、ライブやイベントの前に行きつけのパブで顔なじみと挨拶して一杯やってだべってから遊びに行くという生活は最高ですね。こーいう気楽なパブが町にあるといいなと思うんだけどなかなか無い。あなたの町にあるならそれはとても幸運です。

作業日誌:170626 - 他人に助けてもらうこと、幸せに見えること

今日のBGM : The Menzingers - "Livin' Ain't Easy" (Full Album Stream)

www.youtube.com
 後半の文章にひっかけたわけじゃないですけどこの曲。

 Only a fool would think living could be easy

 「愚か者だけが生きることなんて簡単だって考えるんだよ」と人生のままならなさを唄った歌ですね。「20代が終わった俺たちはどこへ行きゃいいんだ?」という曲で始まって上述の曲で終わる『After The Party』という今年出たアルバム(とてもいい!)に収録されています。

After the Party

After the Party

2017年6月25日放送の『ザ・ノンフィクション』見た

 フジテレビ「ザ・ノンフィクション ~会社と家族にサヨナラ・・・ニートの先の幸せ 後編~」を見た。同時に番組中にTwitterで実況している人や、放送終了後にブログで感想を述べる人などの意見もつらつらと読んでいたんだけど、番組中ニートと呼ばれる人たちに対して納税という文脈を引っ張り出してきて憎んでる人たちがTwitterでかなりの数見受けられたのは興味深かった。「この人たちは税金を払っているの?」「この人たちを助けるために税金を使って欲しくない」など。おそらくこれは流行りの考え方なんだろう。流行るほどシンプルなので納得だ。しかしその理屈でいくとほとんどの人が病院も学校も公共交通機関も通信インフラも自前で建設できるほど納税していない(誰かのお金に助けてもらっている)という事実が自分にも刺さってしまうのではないか。

 もちろん税金というものはこの社会に参加するための料金ではない。勤労によって得た一定量以上の対価に付される義務であって、法人であれ個人であれ出来る人が出来るだけやるものだ。これを納めないものは国民でないというわけではない。

 そもそも各人が自身の生産したものだけで生活をするというシステムではほとんどの人が生きていけないからこそ社会というものが作られたのであって、誰しもが(自分が社会に貢献するより以上に)社会に自分を支えてもらっているのである。私たちが歩いている道路でさえ過去のどこかの時点では存在せず、過去のどこかで誰かが整備してくれたものだ。

 そのように視点をあげて考えると、そもそも人間というのはどんなひとであれいままで生きてきたすべての他人(植物やものでも)に助けてもらっているといえるのではないでしょうか。私は貨幣というシステムも発明していないし役病に対する論文も書いたこともない。車も発明してないし学校もつくっていない。雨を降らしたこともないし水道を自分の家まで引っ張ったこともない。みんな他人にやってもらって快適に生きている。過去の偉人たちの発明や、それをインフラやシステムとして広く普及させた多くの人たち、莫大な(他人の納めた)税金、それらの支援の上に私の生活が成り立っているのだ。社会に負っていない人などだれもいない。

 だからどんな人でもだいたい社会…というか人類というか地球とか宇宙まで広げてもいいんだけど、にはうけた恩は返せない。圧倒的にほとんど一方的に彼らに色々としてもらった恩を抱えたまま死ぬことになる。それは先進国に生まれたらとくにそうであって(得られるものがとても多い)、だからこそ自分たちに余裕ができた時、身の回りや遠くにいる余裕のない(もしくは私たちほど恵まれた環境にいない)他人のために少しでも何かをしようとするのかな…と私は思います。

さらに関連して思ったことなど

https://ameblo.jp/buriarashi/entry-12286882880.html
 同じく、ザ・ノンフィクションを見た人のブログの引用から

なんか表情が曇ってるんだよなぁ・・・。

私が気になったのは、彼らの表情だ。
好きなことをして生きていると言いながらも、
何か吹っ切れないというか(当然か)、
曇りがちな表情には覇気がない。

結局、彼らが意識的に避けている、
「労働」とか「社会的な行事」の時に、
いい顔をしているのだ。

 そしてこのような状態への対策としてこのブログの筆者は

打ち込めること、向上心を持って取り組むこと。
それは、仕事であるなら一番良いが、
趣味でもいい。

 と書いている。

 問題提起された部分の認識(好きなことをしている状態のはずの彼らの表情が曇りがちなこと、やその状況)が正しいのか、それが実際に問題であるのかは別として、その解決策として「打ち込める仕事や趣味」というものがでてくるのはさほど珍しい視点ではない。しかし私はこれは未解決の問題であって、かなり難しい、というかもっと細分化して分析する必要があると思っている。

 一口に「打ち込める仕事」や「打ち込める趣味」と大雑把な概念として捉えてしまうのだけれど、仕事や趣味には様々な要因がからんでくる。その仕事という概念を実行?している最中には様々な行為が含まれる。作業する机が安物だから幸せでないという細部が現れる人もいる。上司がなんとなく気に食わないという感覚が「仕事がいやだ」に内包される認識をしている人もいる。これは非常に難しい問題で、どういう問題として取り扱えばいいのかもわからない(言語的な混乱はある)。ただ、「仕事に打ち込めばいい」「趣味に没頭できればいい」というように大雑把に捉えてもわりと効果がない。それはその渦中にいる(すでに仕事や趣味に没頭できている)人が言えることであって、その状態になろうとする人にはそれ以前に無数の行為を経てその状態へたどり着くという視点が抜けているのだ。

 パブロ・ピカソが「どのように」毎日絵を描いていたのか、実際に絵を描いている時間の彼の表情はどのようなものだったのか、彼の生活をまわりの人間がどう捉えていたのか、彼のアトリエの窓の位置が変わって陽の光が入らなくなるとどう変わるだろうか、など無数の要素がそこには含まれている。ではジャコメッティの場合はどうか、ポール・セザンヌはどうか。そうして彼らの伝記を読むと、傍目には「制作(仕事)に没頭する」としか捉えられない行為にもまた無数のバリエーションがあるし、その実態は第三者にはわからない。フランシス・ベーコンのように作業後は快活に社交し、酒を飲み、健康に生きた人もいれば、人と距離を置き、酒を断つことによって初めて絵に集中できたジャクソン・ポロックのような人もいる(それが本人にとって幸せな状況だったのかは結局わからないが)。

 人生の輝き、傍目から見た「幸せそうさ加減」のようなものを得るのに何が必要なのかという問いは、「仕事や趣味に打ち込む」という(渦中にいる人からの)大雑把な捉え方でなく、じつはもっと細かく個人化と細分化を経て分析しなければわからない問題なのだと思う。