紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

第4号:年末に感じた寂しさについて - 2016.1.1

 年末には友達と会うことが多い。私や私の友達にはそれぞれの友達の間に垣根を設けない傾向があるので、いろんなところで知り合ったバラバラの関係性の友達を違った集まりに呼ぶこともよくある。自分がハブ(中継点)となって友達同士を引き合わせて、自分の葬式で初めて顔を合わすような人たちを前もって知り合わせているようでもある。

 友達と長い時間を過ごしていると、どんな相手でもどんな集まりでもとちゅうからなんとなく気が抜けてきて(酒も抜けて)、何か身を持て余すような気分になる。満たされたような感覚になることはほとんどの場合なくて、何か大事なことを話したり友達との関係性の中で大事な何かを(この機会に)交換したいような、焦るような気持ちになるのだけれど、実際にどうすればよいのかわからずそしてそこで何かを試してその何かがうまくいったこともない。

 そうこうしているうちにひとり家路につく頃になって、なんとなく寂しい気がする。

 おそらくは友達といるだけで満たされるような時期は人生の最初の二十数年ほどのほんの短い間だけで、あとはひたすら自分の仕事に時間を費やすことになる*1。その時期に過ごすべき相手は自分自身であり、自分の仕事に関係する相手である。友達と一緒にただ遊んで過ごすということをするべき人生の時期はもう過ぎたんだなとうすうす感じること。たぶんそれが寂しさにつながっているのだと思う。

 かつての学び舎や職場、自分のいた場所、恋人や友達に対して「もう自分はあなたとは(積極的に)時間を過ごすことはないだろうけど」と感じるのは本質的に寂しいことだ。「かつての学び舎や職場、自分のいた場所、恋人や友達」というのはかつての自分が大事に過ごした時間そのものであり、それこそが「過去」と我々が呼ぶものである。以前に価値を置いていた(惜しみなく時間を使っていた)相手がすでに過去であり、その過去と今一時的に過ごしているということは、懐かしさとともに何か居心地の悪いものをも感じさせるのだと思う。

 しかし、それを感じる自分が現在の自分の仕事をはっきりと自信を持ってかつての相手に示すことができれば、いくらか寂しさはマシになる。それが相手には評価のできないことでも、自分で自分は今このことに時間を使うべきだと思っているんだ、と示せるということ。それが社会的に意義のあることであってもなくても、自分で自分の仕事に満足していること。

 その「仕事」は自分の中にある何か、いままでの友達やすべてのものから受け取った「過去」から何かを作るということで(と私は信じていて)、それは過去に対して今をすこしお返しするという構造になる。そしてなぜかそこにしか「生きている」という実感はない気がするし、自分の過去になってくれた相手や物たちに対して何か自分でちゃんとしたものを作って知らせないといけないという気にさせられる。

 自分で、ちゃんと仕事ができていないと自覚しているときに自分の過去に会うと、寂しさが強くなるというお話でした。(『スターウォーズ フォースの覚醒』を完成させたJ・J・エイブラムスは満足して年を越せただろうか?)

今週の一曲


The Beatles - In My Life

Though I know I’ll never lose affection
For people and things that went before
I know I’ll often stop and think about them


過去の出来事や友だち 彼らへの愛をなくすことはないけれど
でも僕はふっと彼らのことを考えなくなることもわかってるんだ

おまけ

BB-8はもの凄くかわいい。

BB-8: From Sketch to Screen - Star Wars: The Force Awakens Featurette

*1:「自分の仕事」とは、ひとはいづれ自分の価値の置いたことにしか時間を使えなくなるという意味です(それが全く社会的な価値がなくとも)。死ぬまで社会や環境によって用意されたもの(他人の用事)に時間を使う人も多いだろうけれど、それだって自分で選んでそれをする以上はそこに自分は価値を置いている、といえる。