紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

第12号:大事な相手が死ぬことのメリット

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 数年前に家で飼っていた犬が亡くなったんだけど、その犬は雑種であまり町中でも似た犬をみかけなかった。ところが以前の職場の近くで放し飼いにされている犬がいて、そいつとある日町中でひょっと出くわしたんだけど「あ、ちょっとあいつに似てるな。懐かしいな」て感じだった。で、道端に座って「おーい」とか呼んでたらそいつも気楽にこっちにきて「へっへっ」とか言い乍ら私の耳のにおいを嗅いできたりする。くびとかせなかとかを撫でつつ側でいろいろ見分してみると、やっぱりいろんなとこが家の犬と違ってて「まあやっぱり別人だね」みたいに思うんだけど、それと同時にその犬に対する自分の態度は前に家にいた犬と変わらないんだなって気づく。こいつはとうぜん家にいた犬とは違うけど、でもそんなに変わらないとも言えるよな。家に来るか来なかっただけの違いだもんな。おまえも元気にやっていけたらいいな。とかね。そこにはまるでその犬がかつて家で一緒に暮らした犬であるかのような感覚があった。

 それは理屈で言うといろいろ言えるんだけど、前に家で一緒に暮らしてたときはやっぱり生きてるから他のすべての生きてる犬と区別して「家の犬」という特別さや愛情が向けられていたんだけど、死んでしまうと、他の犬と対比しての特別さってなくなるんだよね。死んだ犬の中では特別な存在だけど、生きてる犬の中に特別な犬はいなくなる。特別な相手が実際にこの世にいないからといって、ではそこに向けられていた愛情や親切さや慈しみや共感のような感情は、どこにも存在しなくなるかと言えばそうでない。この世界に特別な対象がいなくなっても、こんどは対象を選ばずに自分の行為だけを向けられるってことに気づくと、前は特別な相手にだけ向けていた愛情も、誰にでも向けられるようになる。

 これってたぶん普遍性の一つの有り様だと思うんだけど、対象がなくなって、自分の有り様だけが変化して残るっていうのかな。これはすごくいいことだと思う。

 家の犬が居なくなったことで初めて、俺は他のすべての犬のなかに以前一緒に過ごしたうちの犬を見いだすようになったと思うし、そこには(うちの犬と他の犬との間)実際にはそんなにたいした違いはないし、「みんなひとつ、みんないっしょなんだ」みたいな絆ワードが出てきそうだけど、それは実感がないとマジで寒い言葉だとは思うけど、実感としてはけっこうある。特別だったうちの犬も他のすべての犬も、彼らに接する自分の態度だけが違うだけで彼らにはそんなに違いがない。そのことってやっぱりうちの犬が生きていたらうちの犬を特別に思うってところで留まっているだけだったと思うし、彼の死んだこと、いなくなったことの善い側面のひとつでもあるなと思う。

 その職場の近くの犬は、出会った最初うちの犬に似てるな〜と思ったんだけどやっぱり細部を見ると全然違って、でも本質的にはそんなに変わらないよなとも思えて、てことはその犬とさらに別の犬もそんなに変わらないよな。んじゃこの世界のすべての犬もそんなに変わらないよな。自分の思い入れだけで相手を特別視してるだけなのかな、と思う。のでいまではすべての犬が俺の家にいた犬みたいなものです。

 これを発展させていって、最初は好きな人や大事な人が大事なんだけど、その人たちに向けていた愛情を別の人たちにも向けられるようになって、厭な奴にも向けられるようになって、な〜んだ、けっきょくみんな愛すべき存在じゃないのと思えたらしめたものですね。

 ということで今週は以上です。

今週の一曲

Antwood というひとの Realization という曲です。僕もさっき見つけたばかりなのでよく知りませんが最後に流れるメロディが美しくていいです。「コンバンワ!」が微笑ましいですね。

蛇足

 言わなくていいことだと思うんだけど、これは死やいなくなることという避けられない出来事の中にも何かを見いだせるという話であって、だからどんどん死んでもいいじゃん死は最高!みたいな意味ではない。