紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

時をかける少女を見るおじさん

 映画『時をかける少女』(2006)がテレビで放送されていたので途中から見た。この映画は10年ほど前に友達の家でも見たのだが、当時はストーリー上の整合性が気になってあまり楽しめなかった。今回はとくに何も考えずに最後まで見た。以下、わたしの物語の解釈です。

 千昭がわざわざこの時代までやってきた目的である(とされる)絵は、別の未来人が魔女おばさんのところに持ってきたものだろうか。その人自身が描いたのか、その人の時代の「数百年前」に描かれたものなのかはわからない。未来人はおそらく千昭の親類か知り合いということになる。

 千昭は絵を見るためにこの時代に来たと真琴に言うのだが、おそらくそれは嘘だ。もちろんそれは目的の一つであるが、本当の目的は魔女おばさんに会うことだろう。絵を魔女おばさんのいる時代に運んだ男の「必ず戻ってくる」という約束を(替わりに)果たしにきたのだ。

 千昭が絵を見るためだけにわざわざあの時代に来る必要性があるかといえば、ない。絵が完成したのがいつか知っていて、というかそもそも絵の存在を知っているなら、飛んでいく先はいつだっていいのだ。千昭があの時代に来た理由は、絵をあの時代に運んだ人と関係があると考える方が自然だ。おそらく絵を運んだ人は魔女おばさんとの約束を果たすことは出来なくなってしまった。だから替わりに千昭が来た。そしたら自分は真琴と約束しちゃうんだけど。

 最終的に千昭と真琴の恋愛はどうにもうまくいかないけれど、そして二人はおそらく永遠にバラバラになってしまうけれど、二人の間の約束は残る。そこが私なんかはいいなと思う。恋愛はたくさんできても、誰とも約束のない人生はたくさんある。

 ところで上記ストーリー解釈はたぶん矛盾や穴があるのだと思うのだが、私は最近になって穴だらけ矛盾だらけのまとめかたや捉え方でもいいかなと思えるようになった。物語そのものには以前からガチガチの整合性を求めていたんだけど、捉え方は自由で矛盾しててもいい。そのうちに物語も矛盾していてもいいかと思えている。なぜだろうか。この世のすべてを矛盾なく全て把握して整合的に解釈するのなんて無理なんだから、細かいとこはいいじゃないのという気になっているのかもしれない。わからない。

 作中、真琴の幼さや出来ていなさにイライラしてしまうのだけど、そうだこれは高校生の少年少女の話なのだと最後に思う。若い人たちが成長する物語はいいものですね。