紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

雑記:MOTHERについて

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Wisdom of the World / Mother (NES) Music - Queen Mary's Castle

www.youtube.com

https://lparchive.org/Mother-%28by-Leavemywife-and-Explosionface%29/Update%2024/5-image045.png

たまに クイーンマリーは
うなされてるんだ。
 
わるいこを しかりつけるような
ことをいって
 
こわい こわい となきさけぶのさ。
 
そして
うたを うたいはじめるんだ。
ほんのすこしだけ・・・・
 
で おもいだせないって
くるしがってさ。 あせびっしょり
かいて めざめるわけさ。
 
クイーンマリーは むかし
よっぽど かなしい
ひどいめに あったのかな。

* * *

 時空も超えて最後には不死になった3のポーキーが2のギーグ説というのは誰かがすでにとなえている説だろう。1の「うたう」はお母さん (Mother) の歌を子どもへとどけるという意味があったけれど、2の「いのる」は主人公を応援するゲーム内人物+プレイヤーという文脈だけなのがちょっと物足りない。だけど2のギーグが3を経たポーキーだとすれば、彼の永遠の苦しみを終わらせるためならいいか。祈るか。と思えるかもしれない。けれど、でもまあこれはあり得ない後づけでしょうね。1と2のギーグは別ものぽいし(英語版だとスペルも違う)1だと固有名詞だったものが2では悪なるものといった抽象的な意味に変わったのだと思う。なので、3のポーキー説という無茶な妄想も一応(あくまでも一応)あてはめることが出来るのだが。というか2のギーグはストーリーとも主人公(ネス)とも縁がなさすぎるんだよね。2の制作時すでに3のプロットや計画はあったのだろうか?あればポーキー説もあり得る?ないと思うんだけど。

 ところで1の主人公ニンテンは任天堂からだろうけど、ネスはなんなんだよと思ってたんだけどNES (Nintendo Entertainment System) かな。でもネスっていい名前ですね。

 話は変わって糸井重里が『MOTHER』を作ったということは、その人の中のあるものは、あるフォーマット(形式)でないとかたちにならないということの証左だと思う。糸井重里の他の仕事をあまり知らないけれど、おそらく彼の中にあった『MOTHER』的なものは『MOTHER』というゲーム、もっといえば当時のファミコンでプレイされるロールプレイングゲーム (RPG) でしかうまくかたちにならない、もしくはとりだせないものだったんだろう。台詞やストーリーだけを見るとそこにあるのは言葉なので小説にできるかもしれないとか思っちゃうんだけど(じっさいに小説版もあるんだけど)糸井重里の中の『MOTHER』はゲームというかたちでしか表現されないものだったのだ。

 ゲーム内では私たちは他人に話しかけることができる。他人の話をちゃんと聞くことができる。他人の話もすぐに終わってくれる。何度も同じ相手に話しかけることも出来るし、何度聞いても同じことを言ってくれる(または変えてくれる)。唐突に知らない人から「ともだちはだいじにしなよ」と言われても、そこに何かを見出し、何かを受け取るきっかけとして聞くことが出来る。そのようなゲームという構造や在り方において、糸井重里は母が子に子守唄をとどけるという物語や、その道を彩る音楽やことばに溢れた『MOTHER』をつくることができたのだ。そしてわれわれもそれを真剣に遊びながら受け取ることができたのだ。