紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

ひさしぶりの友達 まいにちの猫

 私は同窓会のような集まりに行くことがほとんどなかったし、学校や職場や住んでいる家などの環境が変わったが故に定期的に会わなくなった過去の知り合いに久しぶりに会うことは単発的な出来事なので、そのような会に出たり、もしくは偶然に過去の知り合いと出会ったあと、一人になってからうまく言葉にならない感覚があるのに気づいていつも不思議に思う。たぶんそれには「寂しい」という言葉をあてるのだと過去の時点で思ったのだけれど、その不思議な感覚についていまだに考え続けている。

 過去のいっとき一緒に過ごした人たちと久しぶりに会うことで確認するのは「人間はけっきょくほとんどの他人とはいっしょに時間を過ごすことはできないのだ」という事実で、あるとき火星と地球が近づくようにほんの一瞬だけお互いの時間を交換してそのあとはまたほとんど関係がなくバラバラに生きていく。生まれてからいままでに知り合ってきた人々を思い返し、たまに再会して、「これだけの数の知り合い(好感を互いに持つ相手)がいて、でも結局はだれとも一緒にいることはない」ということ、またはそのうちの一人を選んで一緒に暮らしたとしても、それもけっきょくは一瞬の錯覚であって、人と人は必ず一人どうし孤独に時間を積んでいくしかないものなのだということを確認している気がする。

 実家にいる猫としばらく一緒に過ごし、観察していて思うのは、他人との関係性、もしくは一緒に生きているという前提は(それは前提なので)「あ、もうこれでじゅうぶん一緒に居たな」というふうにはならないということだ。毎日寝食をともにして、時間を過ごして、そしてその日々にほとんどの変化がないとしても「もうじゅうぶん」とはならない。猫と私が生きていて、朝夕にご飯をあげて、私が台所にいると足下でごろごろしたり、切っている野菜を見せろと言ってきたりする、これはもう一万回も繰り返してることなのだけれど、これを今日もすることがかけがえのないことで、といってとくべつ何かを積んでいるわけでもなく「明日にはどっちが死んでもいいくらい、もうじゅうぶんやった」にもならず、それはある日終わる。

 いづれ失くすことをまいにち同じようにくり返している。「ただ生きている」ということは、いづれ永遠に固定される「もうどこにもいない」という状態の反対側の皿に唯一乗せられているが故に、それをかけがえのないことだと私は感じているのだと思う。

 この世界の99.999999999%以上の他者とは一緒にいることはできないし、猫でも他人でもどれだけ一緒に居てもそれはあくまでも一瞬のできごとであって、たとえそれが1000年続いても「もうじゅうぶん」には達しない。とすると、「一緒にいる」ということがどういうことなのか私にはよくわからない。そのうちに、過去の一瞬だけすれ違い、好意を交換しあった相手がぱたぱたと死んでいく。生きているとはどういうことなのか、私には本当によくわからないことだ。


 と同時に、久しぶりに人人と会うと、彼らはそれまで私とは全く関係がなく(関係を持つ必要もなく)幸せに暮らしていたり、元気そうだったりする。それはすごく善いことだとも思う。

今日の一曲 Apollo Brown - Blue Ruby

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