今日のBGM : eye - cassette acid garage punk mix
Boredoms (V∞REDOMS)のEYƎのDJ mix。Youtubeには各国の音楽マニアがレアな音源を惜しげもなくアップロードしているので、多作で雑多なアーティストのレアな作品があったりする。EYƎの仕事も世界各国にファンがいるので充実している。
作業日誌
- 作者: エルンスト・H.ゴンブリッチ,E.H. Gombrich
- 出版社/メーカー: ファイドン
- 発売日: 2011/11
- メディア: 単行本
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海辺に座る女性の絵を新たに描きはじめたが、いまのところどうにもならない。なにも見えない。どこへ行くのかもわからない。しかし美術の物語やゴッホの手紙を読んでもわかることなのだが、自分の限界と戦わなかった芸術家はいない。どんなに低いレベルでも超えるべきはその時の自分なのだ。
ショボい人間なりの考え方
世界でいちばん強い碁打ちがGoogleの人工知能の囲碁プログラムAlpha Goに三番勝負で完敗したというニュースがあった。それをうけて機械ができることを人間がやってももう意味はない。いづれ仕事は機械に取って代わられる(産業革命時代みたいだな)囲碁は終わった、などと考えるのはつまらない。機械であれ他人であれ彼らができること、したことと自分がしたいことは別だ。他人がもう十分セックスしたのだからお前はするなとか言われて納得できますか?私は納得できない。他人がやろうがやるまいが私がセックスしたかどうかが重要なのだ。
じぶんがやりたいことというのは、他人や機械がじぶんよりももっとうまくやっていても、そーいうこととは全く関係がないことなのだ。そして機械や偉人がとっくに見つけている素数をどきどきしながらひとりで探すのがショボい人間に生まれた醍醐味だとわたしは思う。遊びというものは自分がするものなのだ。遊びをせんとや生まれけむ…私は遊女ではないが。
時間について
私は自分の意識がこの宇宙に芽生えるのにざっと140億年もかかったということを前提して、その140億年というあいだに私の意識はどこにも存在せず(たぶん)、140億年という時間を感じることもなく、あっという間に…というか気づいたらこの世界にいて、自分という意識を自覚していた。わたしがわたしを自覚するまでのその140億年という途方もない時間を宇宙は淡々と過ごしてきたこと、そして私が死んだあとさらに宇宙は140億年どころでない1000億年、兆年、もしくはその億倍、おそらく永遠ともいえる間存在しつづけ(冷えた宇宙説によると)その永遠ともいえる時間を淡々と過ごしつづける。
とすると、宇宙が経験するであろう(?)10^x年という時間の単位と、私が経験する時間の単位(たとえばの寿命として70年)、そしてネズミが感じる時間の単位(だいたい2年としよう)に通底している「時間」というものは一体なんなのだろうか。それはただ尺度が違うだけで宇宙も人間もネズミも同じものを感じているのだと言えるのだろうか?自分が産まれる前、もしくは死んだあとの何億年というスケールの膨大な時間を淡々と過ごしつづける宇宙や惑星や他の生き物たちの感じている(過ごしている)「時間」というものが、わたしや私の友人たちが「今年ももう終わりだね」と指し示す「一年」のような「時間」と同じように流れているものなのだろうか?わからない。がしかし時間はそのように存在しないのではないかというのが私の勘だ。
ひとは何億年というスケールの時間を体験することはできない。では百年を生きた人は百年という長さ、時間を知っていると言えるのだろうか?私は「一年」や「一日」という時間を認識できているのだろうか?ほかの人間の言う「一年」と同じ分量を私も「一年」と感じているのだろうか?それもわからない。
だれでも考えるのは、時間というのは「数えたからある」ような捉え方をしているだけで、そもそも存在しないのではないかということだろう。たとえばA子ちゃんに対する愛情は抽象概念であり目に見えて実在はしないけれどA子ちゃんにいままでで400万円おごったぶんを愛だと捉えることにすれば、とりあえずその400万円という仮の分量を愛と呼んで計上することができる。それと同じような理屈でただ時間というものをカウントしているだけなのではないだろうか。そしてそのカウントの仕方はただ時計や太陽の軌跡を信用しているものと、アインシュタインが相対性理論の端的な説明に用いたように(ストーブに手をのせた時間と好きな相手と過ごす時間の比較)その主観的な時間を体感する個人差をごちゃごちゃと混ぜ込んでごまかして捉えているだけなのではないだろうか、というものだろう。
しかし…たとえば私がこれを書いているのは西暦2017年の6月2日なのだけれど、私からすれば2500年の6月2日が未来だと確信できないのだ。もしかしたら2500年の6月2日がもうとっくに過ぎている、もしくは今起こりつづけているのかもしれない。織田信長が1560年6月12日に桶狭間の戦いの指揮をとっていたのも、過去のこと、もうこの世のどこにもないことだと私には思えないのだ。今もなお織田信長は1560年6月12日の桶狭間の戦いの指揮をとっていて、昨日の私は今もなお昨日を過ごしているような、三歳の私は今もなおあの布団の中で泣いているような気がするのだ。