紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:知らない女子高生を見てもう死んでもいいかなと

 今日、駅から家まで歩いてたら目の前を歩いてる女子高生がいて、その子がなんか音楽聴きながら身振り手振り、たぶん踊りの練習をしながらてくてく歩いてて、それがとても自然で気持ちがよさそうでこっちも嬉しい気持ちになった。そして彼女のように振る舞うことはもう自分はないだろうなと思い(たぶん失った)そして彼女が今後どういう大人になっていくのかを思うと、それをポジティブに感じると同時にそれを私はもう知ることはないだろうということ、そして知る必要がないのだということにも清々しさのようなものを感じた。

 私はこれからを生きる人たちと完全に違うし(私の時間は終わった)、これからを生きる人たちがどうなっていくかを知ることもない。知る必要もないし心配もしない。そしてそれが自然なことなのだ。

 といった認識が理由のひとつとなって、あ、自分はもう別に死んでもいいなと感じたんだけど、死んでもいい理由には別の要素もあって、短期的には今日見かけた彼女のような新しい人たちがどんどんいるってことと、長期的にはいづれ地球も太陽もなくなってだれひとり生きてないしすべてのことをだれもなにも憶えてないってことだ。

 新しい人たちのなかには今日見かけた彼女のような全く私の知らない(けど私をわくわくさせてくれるような)人と、そして私をほんのちょっと齧りとって取り入れてくれた人といて、どちらも…あ、あまり変わりないな。「新しい人」というだけの認識でいいや。

 とにかくそうなると(いつ死んでもいいやとなると)生きてる間になにしようかなという個人的な課題のみを抱えて生きることになる。私はたいしたことをしないのでそれはどんなことでも頓挫してもべつにいいというのが現在の感じているところだ。「生きてる間になにしようかな」という部分は一番変わりやすいのだけれど、まあかなり状況が変わってもここの(死に対する意識への)影響は20%くらいだと計上している。(子どもや愛する人がいても20%くらい。あとの80%は前述の理由により死んでもいいや判定ってこと)

 以前は自分の考えやなにかを誰かに伝えることが出来たら、そして断片的瞬間的にでも自分のように振る舞う人がいたら、それはもう自分みたいなものなんだとか思って、そしてそーいう人たちのことを自分の死後も生きる自分みたいなものかなとか思ってたんだけど、そーいう人がいなくてもべつにいい。そーいう人のいるいないは私の人生観とあまり関係がない。他人に対して自分の影響の有る無しも自分には関係がない。とにかくある時までは新しい人たちがどんどん出来ていく。それだけで素晴らしい。そしてそれがいつかぷっつり終わってこの宇宙ではもう永遠にそのようなことは起こらない。それはどうしようがなく、それでいい。さて、なにしよっかな。