紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

雑記:ハローグッバイ

 山へ行こうと思って車で国道を走り、一本側道へ入ったところで車道の端の方に黒くて丸くて小さいものが目にはいった。前の車がその小さなものの脇すれすれを走り抜けるとバタバタと羽を動かした。子鳥だ。スズメより二回りほど小さい。
 大きく迂回して子鳥を通り過ぎ、しばらくして駐車スペースを見つけて車を止めた。降りて鳥のほうへ向かう。近距離を車が走っても飛ばないのは飛べないからだ。そして車は次々にやってくる。
 二、三分かかっただろうか。小鳥のいた辺りへ着くとその鳥は黒と赤のぺしゃんこの塊になっていた。ほんの数分の出来事だった。小鳥はもう死んでしまって、この世界に二度と生まれることはない。生まれて今までが彼の全ての時間、空を飛ぶ前に人間の運転する車に潰されて終わり。
 やりきれない気持ちになって歩いて車へ戻り、山へと向かう。車を降りて山道を歩く。
 
 私が小鳥のところへ向かったのは、このままでは彼が死んでしまうと思ったからだ。彼が生きるということは私が生きるということと同じように他のいろんな生き物を殺して生きていくことを意味するのだが、「べつに今死ななくてもいいだろう」というような気持ちがあった。そして車は他の生き物を殺さずとも動くことはできるのだから、車(人間)によって殺されなくてもいいだろう。うまく飛べないくらいまだ生まれたばかりなのだし。

 しかし小鳥は死んでしまった。そしてそのことを悲しむ私がその後山道を歩いているあいだに私はあらゆる植物、草花、そして様々な虫を踏みつけて殺している。ついでに私の今日の夕ご飯の豚も死んでいる。このことをどう考えればいいのだろうか。

 1)神はいない 2)宇宙に意味/意図はない
 という前提からなにかが生きていることも死んでいることにも、存在することにも存在しないことにも意味も価値も違いもないということはわかるのだが、しかしだからといって何が起こってもいいという気持ちにはならない。感情や意識というものは論理を超えたり矛盾を抱えたまま存在することができる鍵なのだろうか。

 もしあの時私が間にあって小鳥を助けたとしても、地球上をびゅんびゅん走り回る車が殺す生き物の数はあいかわらず数えきれないほどだろう。私一人が影響できる範囲と私一人ではどうにもできない範囲には途方もなく開きがある。運良く私が個人的に影響を与えることができたことでも、次の日にはさらに大きな環境によってあっという間に台無しになったりする。すべてあるがまま、これでいいのだ、全ては無常だと悟ったように知らんふりをして入ればいいのだろうか。よくわからない。

 しかし生き物は生きようとするが故に、生きている状態は死んでいる状態よりも良いことだとは言えるのではないだろうか。私はたぶんあの小鳥はもっと生きようとしていたはずだと勝手に信じているのだろう。

今週の一曲:Lego Feet - Part 2(の2曲目?)

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 Autechreの初期名義Lego Feetの91年作。この時期からすでにエレクトロニカの萌芽が見えるというオウテカのすごさよ…これはLPのみで幻の音源だったのが今ではあっさりYoutubeで聴ける。まあCDで再発もされたしね。