紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170703 - 「もったいない」を我がことのように

「もったいない」を我がことのように

以前に
「もったいない」は不思議なことば
という記事を書いた。
saigoofy.hatenablog.com
 軽く引用と要約をすると

上記ブログ記事には、タイトルの通り京都大学という学校を卒業した女性が、現在専業主婦をしていることを他人に言うと「もったいない」と言われることが幾度かあった、ということが書いてあります。

「もったいない」ということばは、その対象がどうあるかということよりも、その対象を含んだ社会のようなものの不均衡をもうちょっと均せるんじゃないかというときにふと口をついて出てしまうんじゃないかと思われます。

 ということでした。この記事を書いた時は「もったいない」と言う側の心理のようなものを考察したんだけど、じつは「もったいない」のようなニュアンスのことは私も何度か言われたことがあって、その度に「と言われてもなあ」という気持ちだったし、なんというかそう言われるということについて客観的に感じられていなかったなという発見があったので今日はそれを書こうと思います。

 私はほとんど私の言うことしか聞かない我の強いアホの典型なので、もちろん誰かからそのときの現状などを鑑みられて「もったいないね」「こーいうことやってみれば?」などと言われたり、誰かに何か忠告されても「あ、そうですか…ちょっと自分でも考えてみます」とか言ってそのときは右から左、しかるべきときに自分でその考えに至らないと行動しない(しかもなかなか行動に移らない)というぐうたらでかなりな時間を損していると見られてもおかしくなかった。

 しかし上記記事で書いたように「もったいない」と言われるということは、やはりそのひとから見てなにか不均衡のようなものを感じているわけだ。マイケル・ジョーダンがゴルフをしているような…水島ヒロが俳優をやめて小説を書いているような…で、それは自分でもわかっていたとしても「んなもん知るかよ」と思ってしまう。自分のことはおいといてという感じである。これを自分でも客観的に、自分のことをまるでマイケル・ジョーダンや水島ヒロを眺めるように見る事は出来ないだろうかと考えると…出来た。

 それは自分と他人を比べたりせずに、自分と自分の記憶を持った状態で来世に生まれ変わった自分とを比べるわけですね。

 わたしは「自分はかなり恵まれている」とか「日本に生まれた時点でかなりの幸運」と思っているし、そしてまわりや広い世界を見回しても「あいつと人間性を取り替えたい、あいつになりたい」と思うような相手もいなかった。とするともし今の記憶を持ち越して生まれ変わったとしたら、かなりの確率で「あ、前世の方がよかったな」と思うだろう。と考えると、現世でもうちょい頑張った方がいいのかもしれないと。来世の自分を前世の自分よりも気に入らない状態というのは、何をするにも不利なので、来世で何をするにしても今よりもハードルが上がる、と考えると今のうちにちょっとでもいろんなことをやっておこう、時間を無駄にしないでおこうという考えにちょっとなれました。

 ある人がある人に「勿体ない」というのは、言われた方からするとムッとすることではあると思うんだけど、来世の自分が前世(いま)の自分を見て「あのときしなかったのはもったいなかったな」と思うのはわりと納得がいく…と考えるとやっぱもったいないのかもしれないなと。

 ところでマイケル・ジョーダンや水島ヒロさんへの「もったいない」と私自身に向けられた「もったいない」は少し意味が違います。私はとにかくぐうたらなので、多くは私の無為や怠惰に対して言われるんですね。「なんもしてないならなんかしろよ」という感じ。なのでマイケル・ジョーダンや水島ヒロさんを引き合いに出しましたが本当は彼らと私の状況は比べるべくも無いし、彼らは自分のやろうと思ったことをまわりが何と言おうとやるのがいいと思っています。

 個人的には来世というか生まれ変わりは絶対にないと思うけど、アナロジーとして来世から今を眺めるといまの条件の破格の良さ(悪さ)をけっこう客観視できるという発見があったのでここに書いておきます。

今日のBGM : Welcome COM.A
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 きのうがJoseph Nothingだったのできょうはその弟のCOM.A(コーマと読みます)です。当時はエレクトロニカのアルバムの最後の方にこういう曲が2曲くらい入ってたんですよね。いまでもか。ジャケがチープでいいですね。

作業日誌:170701 - みんなが好きなもの、私が好きなもの、世界一のもの

みんなが好きなもの、私が好きなもの

 不思議に眺めることのひとつにインターネット(SNS)にはほぼ無数の人間がいるけれど、その無数の人々が興味をもつ対象は無数というわけでなく、ばらけない。それ以前のテレビや雑誌のようなマスメディアに映る(比較的に)大規模な有名な人や事象から、ただただ小規模な有名人、事象に枝分かれしたという感じだ。とある町のとある個人にマジで個人的に興味を持ち続けるような人はあまりいない。個人化、個性化というよりは、小規模な社会化という状態に見える。

 話は飛び飛びになるが、自分の欲望というのは本来とても個人的なものだから、それを素直にもちつづけている人は簡単に知っているのだが、ある状態の人には見つけにくい。そして、多くの人がいいと言っていることはものすごくわかりやすいし、けっこうそれも気持ちいいものだ。わかりやすいというのは、それを楽しむ機会が多くて、それを楽しむ手本も豊富にあるということだ。もちろんそもそもがとても個人的な欲望をもっていることそのものが珍しいということもありうる。人類皆が正直に活動しているわけではないのでわからないけれど。

 個人として○○が好きだというのと、○○好きの一人というのは全然違うのだけれど、といってそこに自覚的な人もわりと少ないのかなという印象もある。傍から見てるとみんな一緒に見える or 傍から見てもあの人は全く異質に見えるの両方がいる。

 また話をズラして考えると、恋愛とは他人には羨ましがられないというところにその本質があると思う。だれもが価値を置いているものでなく、この誰も知らないようなものが、なぜか自分にとってとても大事なのだというところに妙味がある。しかし恋愛というものに社会性を含む人も多々いるので(スポーツの部活のマネージャーは補欠と付き合わない)それはそれでいいのだけれど、私はなにか個人的にできることに関しては個人として振り切るのがいいと思っている。それは芸術であれ、人生観であれ、恋愛であれ。


 話はまとまらないがオクラの話に移る。

世界一のオクラ

 父親のつくったオクラが食べられる季節になった。畑からもいで土を落として水でさっと洗ってしょうゆをちょっとかけてそのまま生で食べる。これ以上のものはないというくらいに美味しい。しかし実際にこれ以上はない…というか食べ物とは基本的に素材が一番で、その上にのせるものの差はそんなに出ないものだ。世界一のものが自分の家の庭にあるものなのだ。

 ところでこれは食べ物だけでなくいろんなものにも言えることでもある。たとえば家にはうちの猫がいて、instagramには世界中から世界で一番いいねを得てる猫がいて、でもうちの猫が世界で一番だ、私は大事なのだということ。豊かさや贅沢ってものは上限その程度のことであり、そして身近に見つかるものなのだなと。

今日のBGM : Joseph Nothing feat.七尾旅人 *Ballad For The Unloved

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 アルバムを買って15年くらい聞いてたけどこれ七尾旅人の声だったんですね。知らなかった。これもAphex Twin / Squarepusher以降のエレクトロニカ華やかりし頃の曲です。Joseph Nothingという名前ですが日本人です。ちなみにこの人の弟もCOM.Aという名義でエレクトロニカをやっていて名字が吉田なのでエレクトロニカ界の吉田兄弟でした。とある番組で「このあと吉田兄弟のライブ!」と出たので二人のユニットROM=PARIかと思いきや三味線で有名な吉田兄弟だったので笑った憶えがあります。

作業日誌 : 170630 - 星の王子様についてもう一度/考え方というよりは習慣

星の王子様についてもう一度

 作業の合間に本屋へ行くとサン=テグジュペリの『Le Petit Prince(星の王子様)』の文庫が四冊あった。岩波の(内藤濯の)翻訳権が切れたので別の出版社からそれぞれ新訳版を出したものだ。何気なく読みくらべたりして、そのうちの一冊を買って帰って読んだ。

 星の王子様は小さい頃に読んで、よくわからないところとはっきりよくわかるところが混在していて不思議に思った憶えがある。かなり変な本だともいえる。大人になって読み返してもやっぱり変な本だなという印象だ。変というのは、ユニークであり、謎があり、複雑であり、単純でもあり…と言葉ではうまくいいあらわせないということである。これは宮沢賢治の作品にもいえる。星の王子様も宮沢賢治の童話もかなりの数の人がそれを読んでいるけれど、ほとんどだれもよくわかっていないというかなり不思議な存在である。まるで宮﨑駿の映画のように…というとこれは当たり前の話であって、宮﨑駿が彼らの影響を受けているのだから逆である。

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

 岩波新書の『本へのとびら』で宮﨑駿が岩波少年文庫を50冊紹介しているのだけれど、その一冊目が星の王子様だった。とても短い紹介文で素晴らしい文章だけれど、引用はしない。最後に「一度は読まないといけません」と書いている。

 誰かにお勧めの本を聞かれたときに、星の王子様のようなだれもが知っているような、もしくは子供のときに読んだだろうという本は率先してすすめたことはないけれど、といって読んだことある?と訊いたこともあまりない。一度は読まないといけない本。私は「これをせずに死ぬのは勿体ない」という文脈によって紹介されるものにあまり興味はないが(鑑賞すべき名画、見るべき絶景、食べるべき料理、etc...)『星の王子様』を「一度は読まないといけません」と紹介する大人がいるというところに、人間というものの豊かさを感じる。大事なものはすぐ近くにあるのだ。

汚れた本を買う

 ところで本屋で別の本も買った。以前から買おうと思っていた本を見つけて、さっと手にとったら表紙にものすごい折れ線が入っていた。むかしは欲しい本でもすでに汚れがあるとか店頭に置いてあったために焼けているといった使用感があると嫌がってその店では買わなかったけれど、最近は率先して買うようになった。他の人もそのような本をわざわざ買うのを避けそうな気もするし、となると「こいつ、行くとこあるのか?」とか思って、んじゃ私が引き受けようと。そもそもたいしたことじゃないし、自分もかなりの中古品みたいなものですし…

 しかしこれは私が本にとっての聖人君子だからとか素晴らしい考え方をしてるとかじゃなくて、ただ他人から自分に乗り移ってきた習慣のようなものである。「引き取り手のなさそうなものから引き取る」という姿勢はあるところには普通にあって、それは普通のことなのだ。スーパーで卵を買う時も、自分だけでなくてこの世界全体の無駄を減らすという視点があれば、消費期限の近いものから買うようにして早めに使えば廃棄する数を減らすことが出来る。保健所へ動物を引き取りにいく時でも器量のよくないものから引き取る。アメリカにいる時はこーいう感覚は普通に市民に具わっているように感じて(友達がさも当然のようにそうしていた)わたしはそれをただ「いいな」と思ってマネをするようになったのだと思う。

 ある考え方や姿勢というのは自分でイチから作り出すのは大変だけど、そしてそれは素晴らしいものに思えたりもするけれど、あるところではただ普通に人々に具わっている。そーいう部分を感じると一人でただ考えるってのは世界が狭いなとか人類の種としての知性は個人の能力を圧倒的に超えているなあなどと思いますね。

今日のBGM : Kazumasa Hashimoto - Echomoo

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 これもエレクトロニカ華やかりし2000年代前半に出会った曲。エレクトロニカというジャンルにおいては日本人のアーティストもかなり繊細でグッドな作品を作っていて、アメ村のタワレコでもシスコ(懐かしいですね)でも国境は全然ないって感じでそれが普通だった。