紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170704 - Bedの前にBetしろ

セックスを違法にするとおもしろくなる

 しょうもない思いつきなんだけど(そうでないものは私にはないのだが)セックスが違法になったらむちゃくちゃ面白くなると思う。このおもしろくなるというのはセックスすること自体がおもしろくなるということとそれを持ちかける(口説く)ことに独自の趣きが出てくる、味わい深くなるということですね。違法化された世界がおもしろいという意味ではないです。

 なんでそう思うのかを書く前にまず合法化されてしまったつまらなさを書きたい。いや性交渉自体は大昔から違法ではないけれど(売春はアウト…あ、売春はおもしろいのかもしれない)今では婚前交渉というものが(ほぼ)当たり前になってしまったので「それを大事に守る」という感覚が減少している。大事なものや尊厳というものは自分で守るものでもあって、だからこそそれが大切なものになるのだ。そこを安売りしてしまってはそのもの自体の神聖さが失われてしまうという考えが基本にあります。

 「出来るかどうかわからない」という相手とのセックスの方が「どーせできるだろう」と思っている相手のものよりも成功すると嬉しいように、セックスが「だれでもいつでもできること」になると「特定の相手だけと特定のときにだけしかできないこと」よりもつまらないものになる。そこの価値というものは減ってしまう。ほんとうに大事なものはシェアしてはいけない。いまは「恋愛」というコマーシャルな思想がはびこっているのでセックスは「だれでもいつでもすること」になっている。もちろん「だれでもいつでも出来るわけじゃねえよ」という意見はあるでしょうが、ルールとしてはとてつもなくユルい判定、多くの人が当たるくじ引きを引いている状態だということが言いたいわけです。誰かとセックスが出来る条件はオリンピックの金メダルを取るようなストリクトな条件とくらべると「だれでもできる」ということですね。

 しかしこれが違法化されると相手を口説くとき、「結婚しよう」と言うことが「付き合おう」と言うことよりもリスクを負っているように、あなたとセックスがしたいのだと言うことにものすごいリスクを負うことになる。そこには(現在失われつつある)真剣さというものの影を認めることが出来るでしょう。「こいつは異常な犯罪者かもしれないがこの気持ちは真剣かもしれない」と言われた方は思いやすい。だれにでも言ってるとしたらマジでイカれているがそれはさらにおもしろい。それにある意味では危険で社会に反したことを二人で協力して行うということの魔力もあります。なんか抽象的なことばかり言っているな…とにかく平和な日常にふと差し込まれる危険で真剣な交渉。これがつまらないはずはないです。

 と考えると、やはり口説くということにお互い(ほとんど)何も賭けていないというのがセックスをつまらなくしていると言える。極端にいえば嘘でも言ったものがち、口説いたものがちになってしまう。するとだれにでもそれを平気で言えるやつがジョーカーになる。で、実際は好きであれば/付き合っていればというゆるゆるの基準によってだれとでも平気でセックスしているという図式に近いものになっていて、恋愛という文脈を利用すれば嘘をうまくつくことによってほとんど何も賭けずにセックス(と交渉)が出来る。ああつまらない。

 ところで売買春は多少の金と危険をお互いに少し負っているのでふつうのセックスや交渉よりも楽しいのだろうか?そこは経験がないのでよくわからない。だれか経験のある人がいれば教えてください。よく(冗談で)言われる話に麻薬やギャンブルを合法化すると中毒者は減るだろうというものがありますが、逆に言えばリスクを負っているというのは楽しくもあるのだという話?でした。

おまけ

 なんでこんなことを考えたかというと、もし皇族のひとを好きになったとしたら、自分が何も賭けずに生半可な気持ちで口説いたり出来るわけがないと思ったからでした。いまはほとんどセックスは何も賭けずに出来ることですが、ある個人とある個人の間にはちゃんと尊厳やほかのいろいろがBetされていることもあるでしょう。相手が誰であれそーいう人間でいたいですね。

さらに追記

 だからみんな不倫するのかもしれない…というあたりまえの結論に達してしまった

今日のBGM : Lofi Hip Hop Radio 24/7 Chill Gaming / Study Beats

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 メロウなビーツが延々流れている24時間放送動画。ちょっと甘すぎる感もありますがだらっとかけつづけて作業するのにいい時もあるでしょう。

作業日誌:170703 - 「もったいない」を我がことのように

「もったいない」を我がことのように

以前に
「もったいない」は不思議なことば
という記事を書いた。
saigoofy.hatenablog.com
 軽く引用と要約をすると

上記ブログ記事には、タイトルの通り京都大学という学校を卒業した女性が、現在専業主婦をしていることを他人に言うと「もったいない」と言われることが幾度かあった、ということが書いてあります。

「もったいない」ということばは、その対象がどうあるかということよりも、その対象を含んだ社会のようなものの不均衡をもうちょっと均せるんじゃないかというときにふと口をついて出てしまうんじゃないかと思われます。

 ということでした。この記事を書いた時は「もったいない」と言う側の心理のようなものを考察したんだけど、じつは「もったいない」のようなニュアンスのことは私も何度か言われたことがあって、その度に「と言われてもなあ」という気持ちだったし、なんというかそう言われるということについて客観的に感じられていなかったなという発見があったので今日はそれを書こうと思います。

 私はほとんど私の言うことしか聞かない我の強いアホの典型なので、もちろん誰かからそのときの現状などを鑑みられて「もったいないね」「こーいうことやってみれば?」などと言われたり、誰かに何か忠告されても「あ、そうですか…ちょっと自分でも考えてみます」とか言ってそのときは右から左、しかるべきときに自分でその考えに至らないと行動しない(しかもなかなか行動に移らない)というぐうたらでかなりな時間を損していると見られてもおかしくなかった。

 しかし上記記事で書いたように「もったいない」と言われるということは、やはりそのひとから見てなにか不均衡のようなものを感じているわけだ。マイケル・ジョーダンがゴルフをしているような…水島ヒロが俳優をやめて小説を書いているような…で、それは自分でもわかっていたとしても「んなもん知るかよ」と思ってしまう。自分のことはおいといてという感じである。これを自分でも客観的に、自分のことをまるでマイケル・ジョーダンや水島ヒロを眺めるように見る事は出来ないだろうかと考えると…出来た。

 それは自分と他人を比べたりせずに、自分と自分の記憶を持った状態で来世に生まれ変わった自分とを比べるわけですね。

 わたしは「自分はかなり恵まれている」とか「日本に生まれた時点でかなりの幸運」と思っているし、そしてまわりや広い世界を見回しても「あいつと人間性を取り替えたい、あいつになりたい」と思うような相手もいなかった。とするともし今の記憶を持ち越して生まれ変わったとしたら、かなりの確率で「あ、前世の方がよかったな」と思うだろう。と考えると、現世でもうちょい頑張った方がいいのかもしれないと。来世の自分を前世の自分よりも気に入らない状態というのは、何をするにも不利なので、来世で何をするにしても今よりもハードルが上がる、と考えると今のうちにちょっとでもいろんなことをやっておこう、時間を無駄にしないでおこうという考えにちょっとなれました。

 ある人がある人に「勿体ない」というのは、言われた方からするとムッとすることではあると思うんだけど、来世の自分が前世(いま)の自分を見て「あのときしなかったのはもったいなかったな」と思うのはわりと納得がいく…と考えるとやっぱもったいないのかもしれないなと。

 ところでマイケル・ジョーダンや水島ヒロさんへの「もったいない」と私自身に向けられた「もったいない」は少し意味が違います。私はとにかくぐうたらなので、多くは私の無為や怠惰に対して言われるんですね。「なんもしてないならなんかしろよ」という感じ。なのでマイケル・ジョーダンや水島ヒロさんを引き合いに出しましたが本当は彼らと私の状況は比べるべくも無いし、彼らは自分のやろうと思ったことをまわりが何と言おうとやるのがいいと思っています。

 個人的には来世というか生まれ変わりは絶対にないと思うけど、アナロジーとして来世から今を眺めるといまの条件の破格の良さ(悪さ)をけっこう客観視できるという発見があったのでここに書いておきます。

今日のBGM : Welcome COM.A
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 きのうがJoseph Nothingだったのできょうはその弟のCOM.A(コーマと読みます)です。当時はエレクトロニカのアルバムの最後の方にこういう曲が2曲くらい入ってたんですよね。いまでもか。ジャケがチープでいいですね。

作業日誌:170701 - みんなが好きなもの、私が好きなもの、世界一のもの

みんなが好きなもの、私が好きなもの

 不思議に眺めることのひとつにインターネット(SNS)にはほぼ無数の人間がいるけれど、その無数の人々が興味をもつ対象は無数というわけでなく、ばらけない。それ以前のテレビや雑誌のようなマスメディアに映る(比較的に)大規模な有名な人や事象から、ただただ小規模な有名人、事象に枝分かれしたという感じだ。とある町のとある個人にマジで個人的に興味を持ち続けるような人はあまりいない。個人化、個性化というよりは、小規模な社会化という状態に見える。

 話は飛び飛びになるが、自分の欲望というのは本来とても個人的なものだから、それを素直にもちつづけている人は簡単に知っているのだが、ある状態の人には見つけにくい。そして、多くの人がいいと言っていることはものすごくわかりやすいし、けっこうそれも気持ちいいものだ。わかりやすいというのは、それを楽しむ機会が多くて、それを楽しむ手本も豊富にあるということだ。もちろんそもそもがとても個人的な欲望をもっていることそのものが珍しいということもありうる。人類皆が正直に活動しているわけではないのでわからないけれど。

 個人として○○が好きだというのと、○○好きの一人というのは全然違うのだけれど、といってそこに自覚的な人もわりと少ないのかなという印象もある。傍から見てるとみんな一緒に見える or 傍から見てもあの人は全く異質に見えるの両方がいる。

 また話をズラして考えると、恋愛とは他人には羨ましがられないというところにその本質があると思う。だれもが価値を置いているものでなく、この誰も知らないようなものが、なぜか自分にとってとても大事なのだというところに妙味がある。しかし恋愛というものに社会性を含む人も多々いるので(スポーツの部活のマネージャーは補欠と付き合わない)それはそれでいいのだけれど、私はなにか個人的にできることに関しては個人として振り切るのがいいと思っている。それは芸術であれ、人生観であれ、恋愛であれ。


 話はまとまらないがオクラの話に移る。

世界一のオクラ

 父親のつくったオクラが食べられる季節になった。畑からもいで土を落として水でさっと洗ってしょうゆをちょっとかけてそのまま生で食べる。これ以上のものはないというくらいに美味しい。しかし実際にこれ以上はない…というか食べ物とは基本的に素材が一番で、その上にのせるものの差はそんなに出ないものだ。世界一のものが自分の家の庭にあるものなのだ。

 ところでこれは食べ物だけでなくいろんなものにも言えることでもある。たとえば家にはうちの猫がいて、instagramには世界中から世界で一番いいねを得てる猫がいて、でもうちの猫が世界で一番だ、私は大事なのだということ。豊かさや贅沢ってものは上限その程度のことであり、そして身近に見つかるものなのだなと。

今日のBGM : Joseph Nothing feat.七尾旅人 *Ballad For The Unloved

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 アルバムを買って15年くらい聞いてたけどこれ七尾旅人の声だったんですね。知らなかった。これもAphex Twin / Squarepusher以降のエレクトロニカ華やかりし頃の曲です。Joseph Nothingという名前ですが日本人です。ちなみにこの人の弟もCOM.Aという名義でエレクトロニカをやっていて名字が吉田なのでエレクトロニカ界の吉田兄弟でした。とある番組で「このあと吉田兄弟のライブ!」と出たので二人のユニットROM=PARIかと思いきや三味線で有名な吉田兄弟だったので笑った憶えがあります。