紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

16.3.19 / 木 / 晴れ

寄生生物(こいつら)はだいたい何のために生まれてきたんだ

寄生獣 完全版』八巻177ページより。

 わたしは一体何のために生まれてきたのだろうか?
 他の人間は、そのへんにいる虫は、夜に浮かぶ月は、なんのためにあるのだろうか?
 私の身体は生き延びるために空気中の酸素を取り込み、二酸化炭素を吐き出す。水を飲み、他の生き物を食べて栄養を摂取する。生きるということは、または「存在する」ということは、それだけでとても複雑で難しいことなのだ。
 数々の現象や条件が奇跡的にこの宇宙の歴史上ただ一度だけという確率で組み合わさって、今存在しているものが存在することになる。私の命もその一つだ。
 この、めまいのするようなあまりに桁外れな偶然によって下支えされている命というものを消してはならないのではないかというような考えしか今の私にはない。
 「何のために」という目的よりも「生きている」という有り様のほうがあまりにも珍しく重いことだという気がしていて、その理由を問う気持ちが大きくはならないのかもしれない。

雑記:多数派に属していてもそこにいる他人は自分と全然違う

anond.hatelabo.jp

 いい話だと思った。
 というのはこーいう明らかおおくの他人や社会が前提としている価値観とずれたものを自分が持っているのは不幸っちゃ不幸だけど個としての自覚としても機能するからであって「私はみんなと一緒」と無自覚に思いこんでるよりはよっぽど現実の認識としてクリアだと思うからです。なのでアセクシャルという言葉やカテゴリを彼(?)に乱暴にあてちゃうのも彼を取り巻く社会に内在する問題と同根だと思う。

 「付き合う」とか「好き」という言葉はみんな同じものを使っている。「セックスしたいと思う」「好きだからしたいと思う」とかも使うかな。でもそこにある意味やニュアンスやそこから除外されるものや重みはわからない。他人の言葉の内訳はけっきょく謎だし、定義もされていない。だから「自分の使う言葉の意味はだいたいみんなと同じだろう」というぼんやりした状態で日常生活は営まれていく。だけどあるときに言葉に結託していたものがお互い微妙に違うという事実とそれによって生じる悩みというものは、じつは誰にでも起こることでもある。

 究極だれかと一対一の個人としての関係性を築くというときには自分の所属やカテゴリや性向が多数派か少数派か常識的かそうでないかというのは問題じゃなくなる。「で、お前はどんなヤツなんだよ」という地点からお互い一歩も動けない。それを隠すために様々な幻想やイメージが流布されている(幸せな家族像、セレブ然とした生活、理想の夫婦、いろいろ)がそれらは一個しかない自分の意識をつかって一個しかない自分の身体を操縦するというこのどうしようもない現実の前では無効だ。自分が自分として生きるには、自分自身というものの輪郭線をはっきりととっておき、そんな自分が他人とどう接するべきなのかをえんえんくり返していくしかない。ということは自分は他人とは違う/他人は自分とは全然違うということにいかに気づいて自分でどのように対応していくかを考えるきっかけとしてはもの凄くいい。頑張ってください。

 ちなみにこれは自分という唯一の意識を持ってしまった生き物全員の問題のはずなんだけど、なぜか全員には発動してない逆転が起こっている。不思議ですね。

今週の一曲 Ultrademon - Bahrein

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 マジで深い意味はなくウルトラデーモン。rephlexからでたこのアルバムはけっこう昔の(00年前後)IDMマナーに則って作られていてとてもいいです。

雑記:今よりはやく走るもの、遅いもの

 こないだ友達が「嫌いな表現(形式)がどんどん増えてきてる」みたいな話をしてたんだけど、ちょうどみた映画でクイーンがRadio Ga Ga(レディ・ガガの元ネタ)という曲でラジオにもっと頑張れみたいなこと言ってることをなんとなく思い出していた。彼らはラジオに救われた世代の人たちなんだよね。

【和訳】QUEEN - Radio Ga Ga
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 で、それはそれで感動的だとしても、たとえば今は今もテレビを盛り上げようとしている人たちも明らかにいて、でも私と友達はテレビは終わってる(終わりゆくもの)だろうと思っている。音楽についてもレコードやCDを所有するのは一部の人間の趣味になっていくだろうし、これからの日本の文化を担うひとたちのなかではアニメもマンガも見てない人なんて少数派になるだろう。そこにはどうしようもない現代性みたいなものがある。デヴィッド・フィンチャーがいま生きているが故にfacebookマーク・ザッカーバーグをモチーフとして映画『ソーシャル・ネットワーク』を作るしかないように(つまらなかった)、ハリウッドで仕事をする際にマーヴェルヒーローものという形式の中で映画を作るしかないように。

 そのようにして今後出てくるほとんどの表現やおもしろいものが、自分たちの好きでないテイストであったり、好きでない文化を参照元として出来上がっていくということはもうどうしようもない。逆に言えば、中央にいないものはすでにもう終わったものとして死体なりにやっていけばいい。たぶんそれは「今」のことが気に入らない人たちをなんとかかき集めて狭いサークルを維持していくということが解決なのではなくて、個人はあくまでも個として存在するしかないという基本的なことだと思う。QUEENが死んでいくラジオを大事に思ったように、テレビを大事に思う人がいて、いやそれら全部死んでもいいネットがあればいい、もしくはもっと次のなにか、とどんどん「今」と仮想死体が増えていくんだけど、他人にとっての死体だとしても個人的にやっていくのは可能だよなとか。

 自分の感覚としてはいつも圧倒的に好きになれないものばかりがはびこっていたという感じだし、じっとしてたらそーいうものがメディアを通して自然と目や耳に入ってきてしまうので、無理してでも気に入る何かを探すという時期が昔からずっとつづいているから、まあ今がとくべつどーこうということではないんだけど。いい機会なので書いておいた。

 最後に最近の表現について。マンガは最近のものは全然わからない、アニメはいろんな批評や評論をみるとかなりおもしろそうなのもあるんだけど時間がかかるなあとか思って全然見てない。近年の日本映画でも俳優さんのレベルは上がってるみたいだから名作もあると思うんだけど追ってない。ある種の物語構造の更新みたいなのっていまはアニメが一番前衛なんじゃないかなという感じはしている。まあその原作のライトノベルやマンガと言ってもいいのかもしれないけど。あ、あとインディゲームもすばらしいものがたくさんあるんだけど自分ではほとんどやってない。

 とはいえまあこーいうものは出不精が全部カバーするのは不可能でいろんな友達や恋人と交流しつつひとの家の本棚にあるものをちょこちょこつまむみたいに摂取するのが自然というか関の山なので今後もそーいう知り合いを増やしたいなとか。よろしければどなたかよろしくおねがいします。