紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

雑記:イナカということばについて

映画「万引き家族」、オバマ前大統領の「2018年のお気に入りリスト」に選ばれる。日本作品で唯一 | ハフポスト
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 へえ。
 私は『万引き家族』を見ていないのでどんな映画かははっきり知らないけれど(是枝監督のことは少しは知っている)アメリカみたいな文化不毛の地*1で日本の映画を見るというあり得なさはわかるので、よく『万引き家族』を見る事が出来たなあとかひどいことを思った。リストには他にもカンヌでもの凄い評価を受けたイ・チャンドンの『Burning』が入っているところを見るとかなり洗練された趣味の人なんでしょうね。

 アメリカはクソ広いのでだいたいの土地ではその町のショッピングモールにあるもの、もしくはダウンタウンの店にあるものしか手に入らないという選択肢のなさの田舎という意味でほとんどの土地はクソ田舎である。もちろんそんな田舎ではあるていど意識的に何かを探さないと「普通に手に入るもの」以外のものに触れることが出来ない。そんななかでリアル街頭で『万引き家族』を観た人と知り合うのは奇跡なんですよね。だからインターネットやCONが発達したのだ!(これは決めつけ)で、オバマさんはどうやって『万引き家族』を見たのか(いまではNetflixがあるけど)、または『万引き家族』を見るような人間に育つまでにどのようにして他の作品たちと出会ってきたのかということを私は思う。

 私が「ド田舎」とか「田舎臭い」とか「イナカ」という言葉をよくない意味で使うときにはふたつの使い方がある。ひとつ目は対比するものは「都会」なので普通なんだけど(意味としては選択肢の狭さが田舎、なので都会の意味は多様性)もうひとつは「伝統/歴史/スタイル」と対比しているので、これは東京のような比較的伝統のない場所に対して「さすが徳川家康が急造で沼の上に作った町、田舎臭いな」とか使う。東京は人が多く伝統があまりない故多様性があり都会的ではあるが田舎臭くもある、という意味です。

 選択肢が全然ない状態はシンプルにド田舎なんだけど、もうひとつのイナカの意味として、たとえ選択肢が沢山あっても自分がそれらを選ぶ基準がない故に流行りや広告や多くの他人の真似をしてしまうといったことに田舎臭いという言葉を使う。まあその人がどこにいるかは関係なくてその人の有り様の話ですね。先ほども書いた通りそこで対比されるものは伝統/歴史/スタイルなのでその人固有の物差しや基礎となる伝統といったものがない空っぽなものに対しては「田舎臭いね、田舎者だね」という印象になる。最新のなにかを自慢するひとはたいてい田舎者である。

 ところでこないだどっかの駅の名前がどーこう言ってたけど(「高輪ゲートウェイ駅」でした)東京住みでない私は、そもそも新宿とか池袋とか上野とか高田馬場とかぜんぶ即物的なド田舎な名前なんだから今更何でもいいじゃんとか思っていた。まあ「駅名が長い」という批判はもっともですね。ちなみに沼袋は身も蓋もなさすぎて好きな駅名ですらある。

今週の一曲 Powell Tillmans - Feel the Night

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 ノイジーなテクノをつくっていたパウエルくんと現代美術/写真家であるヴォルフガング・ティルマンスがコラボした曲。奇跡的な名曲だったので紹介します。

脚注

*1:とか書いてるけど、僕の出会った範囲ではマジで貧乏だけどゴミ山とかクレイグスリストとかでいろんな掘り出し物を見っけてきていろんな本や映画や薬や音楽や情報を摂取してzineを作ったり家にバンドを呼んでライブしたりする文化的で芸術的な人たちもいました。でも北米大陸全体で見るとごく一部だという話です。

雑記:「好奇心」なにかとても大切なもの

 実家の猫はとても臆病で、誰か知らない人が訪ねてくると押し入れやベランダに隠れて出てこない。家の外で工事の音でもすると怖がって落ち着かず、音が止むまで家人にぴったりとくっついている。ベランダには出るのだが、基本的に外で遊ぶということはない。完全な家猫である。

 しかし数日に一度、自分から玄関まであるいていってにゃあにゃあと誰かを呼ぶ。呼ばれてかけつけた人間がドアを開けてやると、猫は慎重にじっくり時間をかけて空気や音を確認しながらおそるおそる一歩ずつ外に出る。少し歩き、座ってじっとして、また少し歩きして、ゆっくり少しずつ外にからだをなじませている。数mも行くとまた座ってじっとして、何かを観察している。その間、物音や人の声がするとぴゃっととんで帰ってきて玄関から家に入る。帰ってくる時の顔はとても真剣である。

 このような活動をもう何年もくり返しているが(そして私はそれを「冒険」と呼んでいるが)、年月を経て成長し遠くへ行けるようになったわけでもない。外部の音に馴れて怖がらなくなったわけでもない。ただおそるおそる外へ出て、恐くなったら帰ってくることの繰り返し。だけれど数日すると、猫はまた自分から玄関へ行って人を呼ぶ。

 猫が何かを恐がるということは、この世界に対する未知の多さから(たぶん)人間が怖がることよりも強いことだと私は思う。でも猫はまた玄関からちょっとだけ外へ出てみる。ドアを開けてやるときに私は「頑張っておいで」と言う。たぶん猫は家から数mそとを歩くことをいつもがんばっていて、止めていないのだと私は思っている。

 開けっ放しのドアを背で押さえて(閉めると猫がパニックになる)、猫が外をゆっくり歩いたりじっと座ってなにかを観察しているのを見ていると、私はいつも「好奇心」という言葉を思う。猫は5mもドアから離れないし、5分でも外に出ているということはないが、何かにびっくりしてすたこらと走って帰ってきた猫に私はいつも「よく頑張ったな」と言う。たぶん猫の世界に「頑張る」という言葉はないが「好奇心」はあると私は思う。もしくは、この世界に「好奇心」と呼べる何か純粋なものがあるとすれば、私はそれを実家の猫に見ている。

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ひさしぶりの友達 まいにちの猫

 私は同窓会のような集まりに行くことがほとんどなかったし、学校や職場や住んでいる家などの環境が変わったが故に定期的に会わなくなった過去の知り合いに久しぶりに会うことは単発的な出来事なので、そのような会に出たり、もしくは偶然に過去の知り合いと出会ったあと、一人になってからうまく言葉にならない感覚があるのに気づいていつも不思議に思う。たぶんそれには「寂しい」という言葉をあてるのだと過去の時点で思ったのだけれど、その不思議な感覚についていまだに考え続けている。

 過去のいっとき一緒に過ごした人たちと久しぶりに会うことで確認するのは「人間はけっきょくほとんどの他人とはいっしょに時間を過ごすことはできないのだ」という事実で、あるとき火星と地球が近づくようにほんの一瞬だけお互いの時間を交換してそのあとはまたほとんど関係がなくバラバラに生きていく。生まれてからいままでに知り合ってきた人々を思い返し、たまに再会して、「これだけの数の知り合い(好感を互いに持つ相手)がいて、でも結局はだれとも一緒にいることはない」ということ、またはそのうちの一人を選んで一緒に暮らしたとしても、それもけっきょくは一瞬の錯覚であって、人と人は必ず一人どうし孤独に時間を積んでいくしかないものなのだということを確認している気がする。

 実家にいる猫としばらく一緒に過ごし、観察していて思うのは、他人との関係性、もしくは一緒に生きているという前提は(それは前提なので)「あ、もうこれでじゅうぶん一緒に居たな」というふうにはならないということだ。毎日寝食をともにして、時間を過ごして、そしてその日々にほとんどの変化がないとしても「もうじゅうぶん」とはならない。猫と私が生きていて、朝夕にご飯をあげて、私が台所にいると足下でごろごろしたり、切っている野菜を見せろと言ってきたりする、これはもう一万回も繰り返してることなのだけれど、これを今日もすることがかけがえのないことで、といってとくべつ何かを積んでいるわけでもなく「明日にはどっちが死んでもいいくらい、もうじゅうぶんやった」にもならず、それはある日終わる。

 いづれ失くすことをまいにち同じようにくり返している。「ただ生きている」ということは、いづれ永遠に固定される「もうどこにもいない」という状態の反対側の皿に唯一乗せられているが故に、それをかけがえのないことだと私は感じているのだと思う。

 この世界の99.999999999%以上の他者とは一緒にいることはできないし、猫でも他人でもどれだけ一緒に居てもそれはあくまでも一瞬のできごとであって、たとえそれが1000年続いても「もうじゅうぶん」には達しない。とすると、「一緒にいる」ということがどういうことなのか私にはよくわからない。そのうちに、過去の一瞬だけすれ違い、好意を交換しあった相手がぱたぱたと死んでいく。生きているとはどういうことなのか、私には本当によくわからないことだ。


 と同時に、久しぶりに人人と会うと、彼らはそれまで私とは全く関係がなく(関係を持つ必要もなく)幸せに暮らしていたり、元気そうだったりする。それはすごく善いことだとも思う。

今日の一曲 Apollo Brown - Blue Ruby

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