紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

雑記:ブラーエとケプラーの交流/問えない問いについて

 物理学者の講義をYoutubeで聴いていたら、ティコ・ブラーエが二十年間夜空を観察してつけた記録をヨハネス・ケプラーが二十年間研究していた(その結果、惑星が太陽の周りの楕円軌道上を移動しているという有名な第一法則を含むケプラーの法則を導いた)という話を聴いた。そのときふと、ケプラーがブラーエの観察記録を研究している間、この二人の間に…というかケプラーの中には、ブラーエに対して濃密な人間関係のようなものが形成されていたんじゃないかと思った。ブラーエの残した(個人的な)仕事が、なぜか自分の大切なもの(仕事)の助けになるという一体感。簡単に信頼といってもいいかもしれない。それって互いの個性とか人間性とか超越していてすごく素敵だと私は思う。

 おそらくブラーエがその記録を残している際にも、自分に似た(興味の方角を同じくする)未来の誰かに対する真摯さのようなものを持っていたと思う。お互いの信頼のようなものは、時と場所を隔てたそれぞれ別の時空で互いにちぐはぐに生まれたものなんだけど、これがすごくロマンチックに自分には思える。個人的な作業が自分の与り知らぬところで勝手に誰かに受け継がれたり通じたりするのだ。学問の世界にはこういったことが起こる。学問だけじゃなくて芸術や習い事でもいいんだけど、誰かの残した仕事を誰かが参照したり、分析したり、受け継いだりするということだ。

 一つの存在として生きている人間として誰かに好ましく思われるよりも、自分の仕事や作品が後の誰かに届く方が私は好ましく思う。なぜかはよくわからない。ぼんやり感じるのは、作品というものは自分よりも長生きする別の自分であり、人間は自身の有限性を少しでも超えようとするところに善を見いだすのではないかということだけれどももちろんわからない。

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 先日、自己紹介をする機会があって、いつも困るのだけど、とりあえず「ヒマなときには本を読んでいる」と言った。するとだいたい「どんな本を読んでいるのか」と問われる。それに答えると(宇宙/素粒子物理学脳科学、ドラッグ、哲学、倫理学、美術、悟り…)「なぜそんな本を読んでいるのか」となる。ここまでセットになっている。三つ目の問いに対しては自分でもちゃんと答えを作っておかないとなと思って、考えてはいたのだけれど、中座していた。基本的には好奇心があるのだと思うけれど、何に向けられた好奇心なのかがはっきりしないのだった。いや、根底には「死とはなにか」という問いがあるのだけれど、その問いと上記ジャンルの本を読むことの間に、どのような関連を見いだしているのか説明できなかったのだ。けどたぶんこれが答えじゃないかと思うものを思いついたのでここに書く。

 死というものは、それをそのまま考えることができないが故に、それ以外のものごとを通して(アナロジーとして)推測するしかない。ということは、死を考えるために死以外のものを学ぶことになる。ニュートンが地面にリンゴを落とした現象と、月が地球から離れてしまわない現象を結びつけて万有引力の法則を導いたように、今のところ自分は「宇宙/素粒子物理学脳科学、ドラッグ、哲学、倫理学、美術、悟り…」について知ることから死というものを考えようとしているところなのだと思う。これだ!

 死を考えるということは結局は「絶対に答えのでない問いに対して自分はどうふるまうのか」ということである。悪あがきをするかしないか、どのような悪あがきをするのかということで、できることは結局悪あがきでしかない。ということはいくら自分の中でその悪あがきに理路を認めても、客観的にはそこに論理だった理由はないのかもしれない。

 というところまで含めて「なぜそんな本を読んでいるのか」と問われたら、これには沈黙するしかない。本が好きなんですとしか答えようがないし、事実それだけなのかもしれない。

蛇足:
 (宇宙/素粒子物理学脳科学、ドラッグ、哲学、倫理学、美術、悟り…)
のうち、「宇宙/素粒子物理学脳科学、ドラッグ、哲学」についてはおおよそ死について知るために読んでいる。他にも数学や人体や社会、集団とはなにかといったものも含まれる。

 「倫理学、美術、悟り…」についてはどのように生きるかを考えるために読んでいる。他にも宗教や過去の人物の伝記、テクノロジーや文化といったものについての本もこちらに分類される。

 生きながら死について考えないといけない/そのために死んではダメ、というところが生と死がかなりよく出来ているところだと思う。まず生きることについて考えないといけないのだ。そのサッカーの試合中にしか存在できない選手が、サッカーの試合後どこに夕ご飯を食べにいくかを考えることができないように、生きているという構造上どう考えても死について考えることはできない。するとまず大切なのはいかにサッカーの試合をプレイするのか?ということで、それだけで十分でもある。だのになぜか試合後のことについても考えようとするところに謎と矛盾と美しさがあるように思う。

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 その昔ティコ・ブラーエの油〜絵というギャグを考えたんだけど一度も使っていない。油絵はともかくティコ・ブラーエがわたしの生活圏ではマイナーなので誰にも通じなさそうなんだよな。

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 今日の一曲
www.youtube.com
フィリップ・グラスによる劇伴曲。ミニマル・ミュージックと呼ばれるもののかなり原初のものだと思うけど、人が演奏しているのでテクノものよりもフレーズにぶれと幅がある気がする。録音の反復かもしれないけど…『海辺のアインシュタイン』という意味不明で最高のアルバムタイトルもいい。オススメの一枚です。