紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:171224 - 手紙

1.11.17

 こんにちは。お元気ですか?僕はまあまあです。今年の夏に手紙をもらって、その返事です。手紙にはいくつかの事について書かれていましたが(憶えているでしょうか?)個性というものはないということについて補足的に書きます。

 私は、私のような生物が若いころの父親や、先祖、まあその時代々々の私の一族のだれかとして存在したであろうこと、私がこの人生において自主的に(と思って)学んだり創作したものにも個性というものは無いのではないかと思っていること、について、けっこううれしく思っています。

 それは私という我の消滅とともに、私という存在の普遍性をも意味してるからで、まあ意識はここ(この肉体)にしかないと思っていても、私のような生物が過去にも、そしてもしかしたら未来にも居て、その時々の環境に合わせて生きていると考えると、何やら気楽になるからです。私が死ぬと私はもう二度とこの宇宙には存在し得ない、というのは一面では真実なのだろうと思いますが、この宇宙を俯瞰して眺めてみると、いつの時にも私のような奴がいる、というのはなかなか愉快だと私は思うのです。


 そして私はこの人生において、この世界に対して特になんの用事もないというのが気楽でいいと思っています。私になにか社会的に有用な価値や個性(かけがえのなさ)のようなものがあると自分で思っているのは、重苦しい。私のような人間は、過去にも未来にももちろん同時代にも吐いて捨てる程いるだろうという認識は、かえって私を自由にします。まあ無気力にもするともいえますが…ははは

 自分というものにとらわれるよりは、自分なんてそれほど気にしないという態度の方が私はいいと思います。根拠は経験という名の統計しかありませんが。もしかしたらこのような気楽さ、自由さを指向する考え方も何かにとらわれているが故の考えなのかもしれませんが、とりあえず僕は今のところこのように自分の(皆の)個性というものを捉えています。

 まあこの社会はほとんど個性やその人なりの特殊性のようなものを必要とせずに暮らしていけるようにきれいに整備されているし、それは多くの人にとって合理的で良いことなのだと思います。


 それをふまえて、私は何かを作る。絵を描いたり詩をこしらえたり音楽を鳴らしたりする。これは(社会的には)ほとんど意味のない事です。だれも価値の見出さないこと(私以外は、ですね)。だれも価値を見出さないようなことを私がするのは、それはいつだって私の自由だからです。

 ところで、この世界に生きている人々は皆生きているので、他の人々が「ただ生きている」ということに意味や価値を見出しません。それはだれもが普通にやっている、あたりまえのことだと思っているからです。そして、私が「ただ生きている」ということにもだれも意味や価値を見出さないが、私が「ただ生きている」ということは私にとってはかけがえのないことです。

 私が何かを作ったり学んだりすることに私が(私だけが)意味や価値を感じるのは、(そしてそのことを大事だと私だけが思うことは)私が「ただ生きている」ということを私が大事なことだと思うことと同じことであり、そしてまた、そこには個性や特別性といったものは大事なことじゃないんだという確信があります。


 我々が何かを大事に思ったりするのも、それは他人から見れば誤解やまちがいであってもいい。そこに絶対的な(社会的な)価値や意味なんてなくてもいい。ただ我々は自由に何かを思いこんだりする。それでいいんじゃないかと私は思います。

 今日はつかれたのでこのへんで。ではお元気で

今日のBGM

Cid Rim - LP
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