紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170525 - 私の好きのあり方

今日のBGM : Madlib- Flowers (Homework Edit)

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 MadlibのFlowersという三分くらいの曲をえんえん引き延ばしたものです。延々延々聴けます。

作業日誌

 定期的に飲む薬と発作時にのむ頓服の薬があるんだけど、どうやら手や全身の震えは頓服の薬に依るものだった。これを今日は飲まなかったので手の震えがなく、すこし作業が進んだ。

 絵を描くということと、それを言語化することはまったくべつものになる。全く別のもの。本当にまったく別。だから口伝や文物からでは伝わらないものがある。その行為のなかでしか立ち上がらない情報というものがある。例えば筆に白をつけてキャンバスにおく、また筆にこんどは黒をつけて白の上に引く、そのとき白の地の上に引っ張った黒がコンピュータソフトウェアで描くようにパキッと別れるわけではない。黒や筆が地の白をかすりひっかき連れ回し、異常なほどの情報を産みながら黒いあとがついていく、途中からそれはグレーになり、白と黒が混ざる。その情報を受けて、次はここにこういう色を置いた方がいい、線をひいたほうがいいのではないかという予感があり、それを行動する…これらの一連の作業には一秒もかからない。その一秒に名前も言葉もつけられない。このような濃密な情報のやりとりが常に起こる、頭の中を駆け巡る。これらのある要素を抜き出して言語化するのは可能だが、それは別もの。完全な別物。

 描くことは探すこと、探しつづけること。

私の好きのあり方

 私は、何かを知りたいという欲求に「好き」という言葉をあてている。これがいちばん明確だからだ。私があるバンドAのアルバムを聴く。バンドBのアルバムも聴く。しかしバンドAよりもバンドBのアルバムをまた聴きたいと思う。これはバンドBのことを知りたいからだ。

 そして私の「好き」はその全体像が見えると消える。もうあまり知ることが残っていないものは知りたいと思わないからだ。だから通俗的な意味(だと私が認識している意味)で、人を好きになるという状態は、ほとんど一時的な興味で終わる。その気持ちは長続きしない。あるていど長続きするのは親切や情や生活のリズムが合うという利便性や互いの利害が一致しているという効率の良さなどである。しかしそのうちに互いに過ごした時間、歴史というものを重視するようにもなるがこれは今日は触れない。

 たとえば好きな画家もほぼすべての絵を見るとかなりの興味を失う。しかし絵自体にはものすごい情報量が含まれているので絵を記憶することは不可能なので、それでも好き(未知といいかえてもいいかもしれない)はある程度残る。好きな音楽家があっても、その作品をすべて聴くと、もうあまり興味はない。Aphex Twinの音楽がながいこと気に入っているのは、その音楽がかなり抽象的であることと(BGMにならない)次に何をするか本当にわからないところでもある。

 好きであることは未知であることと言っていい。私は私に飽きているので好きではないかもしれないが、私に起こる出来事は未知なことが多い。そして自分に飽きても替わりがないので、慣れている。

 もう未知ではないがかつて好きだったものは好きではなくなっていても、何か不思議な感情はある。これを「懐かしい」とか「情がわいている」とか言うのだろう。私にもその感情がある。何かに費やした自分の過去を大事に思っているのだ。