紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170518 - 猫にカメラを/客にはレシートを

作業日誌

 朝から検査で病院へ。くったり疲れた。

 絵を描く部屋にいるとたまに猫があそびにくる。ほんとうにふらふらと散歩しているついでにやってくるという感じなのだけど、そのときふとiPhoneなんて手に持っていたりすると反射的に写真を撮ろうかなと思いカメラアプリを起動して猫に向ける。猫はレンズが嫌いなのかそれに対して「ふん」という感じできびすを返してさっと帰ってゆく。そのとき、なんとなく私は彼に「ふん、おまえもつまらんことをするね」とでも言われたような気になって、はっとするのだ。

 長い間音信不通だったトラブルメイカーの兄から突然電話があって、声の調子や話ぶりからどうやら困っているということがわかる。しかし弟はそのときとても疲れていて、ふと "What can I do for you?" と、英語の会話上の定型文を口にしてしまい、兄は「べつに…いいよ」と電話を切って、その後自殺してしまった。
 という話を読んだことがある。

 じぶんがふと何かをしてしまう、特に考えることなく何かしてしまうということに対して、できれば自覚的でありたいとおもう。猫にカメラを向けるだけが私と猫の関係でないのだから。とか。

他人の態度とか

 近所に比較的大きなラーメン屋があるのだが、たまに餃子が食べたくなったときに電話で注文して作ってもらってとりにいく。で、こないだここの受付の女の子(いくつくらいだろうか…20前半〜30前半くらいかな)とのやりとりでふと思うことがあった。わたしが店に着くと品物はまだできてないので先に会計をする。そして待つ。品物ができたと呼ばれ、品物を受け取ったあとでそういえばと思って「レシート下さい」というとノータイムで「渡しました」という。いちおう財布とポケットを調べるが、私はレシートをもらうとどこへ保管するかというのを決めていて、しかもそこに無いのを確認してから言ったので、ないのはわかっている。が、一応調べて「もらっていないと思うのですが」ともう一度言う。相手はやれやれといったふうでレジへ行き、何かをタイプしはじめる…がどうやらレシートを再発行する仕方をしらないのか、側を通ったべつのスタッフに何事かを訊く。するとそのスタッフがレジのレシートが出てくるところにすでに挟まっている紙に気づいてピッと抜いてその女の子に渡す。女の子は私にその紙を無言で渡す。私は「ありがとう」といい…少し待って「これは再発行したものですか?」と訊こうかと迷うが、黙って外に出る。

 帰り道にいろいろ考える。あの子はそのうちに仕事やプライベートから何かを学び、あのような傲慢な態度を改めることになるのだろうか。もしくはすでにあの子はそのとき心の中で反省し自身の行動を恥じ、そして傷ついているのだろうか…あの店をもうこの事件を期に利用しないという選択もありうるが(実は以前にもその子の態度で何か思ったことがある…忘れた)それをするべきなのかどうか、彼女の行く末をこのような摩擦を繰り返しながら暗に見守るということも私の人生なのかもしれない…とも思うがそうでもないかなとも思う。それはあの店の先輩の仕事だろ。何やってんだ。

 しかし彼女がたとえば今日の出来事(レシートを渡していないのに渡したといい、それが間違っていたとわかっても黙っていたこと)を反省し、そしてそれを今後しないようにする。それは客に対する店の対応としてはそちらの方がいいと言えるのだが、しかしそれを彼女の「成長」と看做していいのだろうか。その変化は善きことなのだろうか。誰かに判断出来ることなのか。まあこのケースはたぶんいいんだろうけど。

 そして彼女の他人に対する態度も、私が猫に対する態度も、そう違うものでもないかなとも思う。ただふとそうふるまってしまうということなのかもしれない。よくわからない。彼女のことは好きではないのだが、ちょっと知りたいとは思う。でもこの好奇心は失礼なものでもあるよな。

今日のBGM:MRI sounds / MRI noise / Sound effect MRI

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文字通りMRI(Magnetic Resonance Imaging:磁気共鳴画像)の撮影中の音。とても大きい。しかしノイズ・ミニマル音楽ぽい響きはちょっと新鮮でおもしろかった。実際の撮影時はこのビデオの音量と端末の音量をかなり大きくして聞くくらい音がでかくてびっくりします。

作業日誌:170517 - 孤独にいきましょう

作業日誌

 私は毎日絵を描いているんですが(not タブレット)絵を描いているといろんなことを思う。たぶんこれはマラソン選手が走っているとき、もしくは禅僧が坐禅しているとき(坐禅しているときに考え事してたら意味ないよというのはおいといて)、もしくは哲学者が散歩しているとき、そのような身体のある動きに伴ってある考えが浮かんでくるように、絵を描いていると様々な思いが去来する。
 しかし絵を描いている時は絵を描いているというその行為そのものにピタリと集中していて、そのときに頭をよぎる考えというものは「描くという行為」にくらべてつまらない、たいしたことでないものに感じられる。よってその考えは捨てられる。のですが、これをあとから(目覚めたあとの夢のように)思い出すことができたならそれを書き留めておこうと思っている。それを書くスペースがここです。
 しかしながらもっとも大事なことは「そのとき頭に去来した考えのようなもの」よりも「描くという行為の方に価値がある」と体感して判断する、その集中なのだと思う。言語化する必要がないんだもの。しかも現状描いている間に頭に浮かんだことはほとんど思い出せない。ので絵とか、美術とか、創作とか、そういうことについても書いていこうと思っている。今日は書かない。何も思いつかないから。代わりに最近描いた絵のリンクを貼っておきます。

https://pbs.twimg.com/media/C_69f9oVYAE-VkZ.jpg:large

恋愛とかパートナーとか結婚とか生活とか

 私のまわりにも結婚や恋愛などの話はよくある。まるで人は当然のように恋愛し、結婚し、もしくは結婚しないという決断をし、生きているような。正直私にはよくわからない。歳も三十を過ぎて、友人が次々に結婚するという時期は一段落したが、そろそろそれらのうち何組かは離婚しだす時期なのではないかなどとも思う。現に離婚した人もいくらかいて、といって彼らは一人でずっと過ごしているふうでもなく相手を捜して様々な活動をしているようだ。もちろん結婚をしていない知り合いも、恋愛もしくはそういった相手を捜すという状態?に常にいるような印象を受ける。たまにあって話すことなどでそう判断している。
 私はどうだろうか。私の性欲の対象は(いまのところ)女だ。そして私はいまほとんど収入がない。たまに入る依頼で絵を描いたりはしているが、その収入だけでとても食べていけない。絵の具も買えないほどに生活が困窮してきたら出稼ぎに出るつもりだが、いまのところ貯金を取り崩して生きている。という状況でまずほとんどすべての女には私は(結婚を暗に含んだ/含まなくとも)恋愛としての対象には見られないだろうと思う。これが(比較的)客観的な認識である。
 では主観的にはどうかというと、これもよくわからない。私は恋愛するような相手を欲しているのだろうか?というと自分から求めるほどには必要としていないのではないかという気がする。というよりも私はいま「どう生きるか」ということを考えている、というか決めようとしているところであって、この決断にはまず他人の存在というものは想定されない。情けないことに自身の生活というものが確立されてないときには他人の存在なんて考えないものだ。と思うのだが…
 しかしこれは理屈であるともいえる。よくわからない。べつに病院や図書館やスーパーや画材屋へ出かけるのと同じように、ある日常のあるポイントで知り合いの女のところへ出かければいいのではないかと問えばべつにそれは不可能でない。
 うーん…ただ、そう。もう「社交」をしていてもしょうがないとは思うのだ。結局のところ私は一人で生きていくという前提をとりあえず自分で抱えて、どうしようかと考えている。それに、朝起きて、顔を洗ってぼんやりキャンバスの前に立って(座って)筆をふるう、するともう夕方になっていて、しかも絵は全く進んでいない。もしくはあまりにもヘタクソで泣きそうになっている。そうしてあっという間に日々が過ぎている。そこに他人を足そうとは思わない。健康的に生きている女性にモデルになって欲しいなと思うことはある。あ、可能性はこれか。

今日の引用:春だなぁと思う - finalventの日記

春だなぁと思う - finalventの日記

ただ、恋愛というのはお手軽なものではないし、三十過ぎれば、自分の孤独というか死の形みたいのを少しずつ引き受けなくてはならない。孤独ということは、指針がないということだ。マニュアルがないということでもある。しいていえば、孤独に生きた人の生き方からその構えを学ぶくらいだろう。生き方というのは真似ができないというのも孤独という意味だ。

あまり言えた義理ではないが、人が人に惚れるというのは、ライフスタイルに惚れるのだ。美醜なんざすぐに化けの皮が剥がれるか、飽きてしまうものだ。ライフスタイルのない人間というのはだから浮遊する。それが小利口であったり美人であったりすれば世間はそこに人間関係のような渦を作り出す。でも、それは、なんというかつまらないことだ。

私は利口でもないし美人・美男子でもない。誰も私の孤独なんか関心を持たない。それは原点なのであって、よい原点だ。その原点に立てない大人も多いように思うが、わからん。知ったことかとも思う。

 わたしがもし誰かのライフスタイルに惚れても、そのひとにはそのひとの生活があり、自分の生活は変わらない。自立した個人同士ががそれぞれなんとなく並走するような人間関係でないと続かない。べつにその相手はいなくてもいい。
 私は、たぶん孤独でいるということを前提にしようとしているのだと思う。誰が側で寝ていても眠りに入るのはひとりぼっちの仕事であるように、孤独というものはどんな相手と一緒にいてもこればかりは無くならないものだという実感がある。しかしそれが人生の味というものだ。この身体や時の流れることが生きているということの前提であるように孤独であるということもまた当たり前の前提なのだと思っている。
 

今日のBGM:Fatboy Slim - Where U Iz (12'' Mix)

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文章がくらいのでせめて明るい曲を…

雑記:今日があれの最後の日

 あとになって静かな気持ちで思い返してみると、あのときああ言ったのは、ああ振舞ったのは正気な態度じゃなかったなとか思って後悔するのは、誰かと過ごした独特なあと味だな。

 誰かに何かを言ったり何かをしたりするのは、こうやって一人で何かを書いたり何かをしたりするのと違って、いつでも何でも言ったりしたりする機会があるわけじゃない。そのときその人にそのことについて何かを言うのは、マジでその瞬間しかなくて、結局あとになってももう二度とその機会はなかったりする。

 その瞬間はすべて一度きりのものだから、後悔や反省をまったく積まずに他人と過ごしたという時間はほとんどないかもしれない。

 死体に対して丁重に思いやりをもって接するのは、そのときが最後だと知ってるから簡単なことなんだけど、私たちはみんな生きてるから、今日のこともまだまだこれから何度でも起こると思っちゃうんだよな。