紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:「つぶやく」ということから始めて行けるとこまで

 「つぶやく」ということについて思いついたことを書きたい。ところで私の今の仕事は…と書いてから「仕事」のことをなんと呼ぶか迷ってしまった。候補は
1)仕事
2)バイト
3)昼の仕事
4)労働
などである。というのは「仕事」とは呼びたくないからであって、なぜかというとそれは「仕事」という単語を自分の一番大事な活動のためにとっておきたいからである。それは創作、ものつくりであって、それをしているのは主に夜、なのでそれ以外の生活のための仕事を指して「3)昼の仕事」という候補が出てくるのだがこれは「昼の」の分だけ長いしその仕事は朝から夕方にも及んだりする。「2)バイト」が言いやすくていいのだけれどこれは現代日本では雇用状態をも表す単語なので正確でないことがある。確か原語はドイツ語でアルバイトは単純に労働と訳されていたはずだ。これはしっくりくる。となると「4)労働」が適しているかというと「労働をしていた」というのはなんとなく座りが悪い。ので難しい。「3)昼の仕事」が暗に「夜の〜」を含んでいるのでそれでいいのだろうか。でも長いな。

 ともあれ今の昼の仕事は、子どもたちと接する仕事をしている。子どもというのはだいたい6歳くらいから12、3歳くらいまでなのでおよそ小学生たちを相手にしていると言える。

 とここまで書いたらもう寝る時間なので続きはまた明日…

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作業日誌:171224 - 手紙

1.11.17

 こんにちは。お元気ですか?僕はまあまあです。今年の夏に手紙をもらって、その返事です。手紙にはいくつかの事について書かれていましたが(憶えているでしょうか?)個性というものはないということについて補足的に書きます。

 私は、私のような生物が若いころの父親や、先祖、まあその時代々々の私の一族のだれかとして存在したであろうこと、私がこの人生において自主的に(と思って)学んだり創作したものにも個性というものは無いのではないかと思っていること、について、けっこううれしく思っています。

 それは私という我の消滅とともに、私という存在の普遍性をも意味してるからで、まあ意識はここ(この肉体)にしかないと思っていても、私のような生物が過去にも、そしてもしかしたら未来にも居て、その時々の環境に合わせて生きていると考えると、何やら気楽になるからです。私が死ぬと私はもう二度とこの宇宙には存在し得ない、というのは一面では真実なのだろうと思いますが、この宇宙を俯瞰して眺めてみると、いつの時にも私のような奴がいる、というのはなかなか愉快だと私は思うのです。


 そして私はこの人生において、この世界に対して特になんの用事もないというのが気楽でいいと思っています。私になにか社会的に有用な価値や個性(かけがえのなさ)のようなものがあると自分で思っているのは、重苦しい。私のような人間は、過去にも未来にももちろん同時代にも吐いて捨てる程いるだろうという認識は、かえって私を自由にします。まあ無気力にもするともいえますが…ははは

 自分というものにとらわれるよりは、自分なんてそれほど気にしないという態度の方が私はいいと思います。根拠は経験という名の統計しかありませんが。もしかしたらこのような気楽さ、自由さを指向する考え方も何かにとらわれているが故の考えなのかもしれませんが、とりあえず僕は今のところこのように自分の(皆の)個性というものを捉えています。

 まあこの社会はほとんど個性やその人なりの特殊性のようなものを必要とせずに暮らしていけるようにきれいに整備されているし、それは多くの人にとって合理的で良いことなのだと思います。


 それをふまえて、私は何かを作る。絵を描いたり詩をこしらえたり音楽を鳴らしたりする。これは(社会的には)ほとんど意味のない事です。だれも価値の見出さないこと(私以外は、ですね)。だれも価値を見出さないようなことを私がするのは、それはいつだって私の自由だからです。

 ところで、この世界に生きている人々は皆生きているので、他の人々が「ただ生きている」ということに意味や価値を見出しません。それはだれもが普通にやっている、あたりまえのことだと思っているからです。そして、私が「ただ生きている」ということにもだれも意味や価値を見出さないが、私が「ただ生きている」ということは私にとってはかけがえのないことです。

 私が何かを作ったり学んだりすることに私が(私だけが)意味や価値を感じるのは、(そしてそのことを大事だと私だけが思うことは)私が「ただ生きている」ということを私が大事なことだと思うことと同じことであり、そしてまた、そこには個性や特別性といったものは大事なことじゃないんだという確信があります。


 我々が何かを大事に思ったりするのも、それは他人から見れば誤解やまちがいであってもいい。そこに絶対的な(社会的な)価値や意味なんてなくてもいい。ただ我々は自由に何かを思いこんだりする。それでいいんじゃないかと私は思います。

 今日はつかれたのでこのへんで。ではお元気で

今日のBGM

Cid Rim - LP
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作業日誌:171021 - 貴重なもの、大事なもの

 命ってそこに一個しかないから貴重と言えちゃうんだけど、この世に生きてるものは全部一個しかないしだいたいのものも一個しかない(そのあたりに落ちてる葉っぱとか)。ほかにもすべての瞬間は一回しかないってこととかもあって、ただひとつ、ただいちど、ということの貴重性は珍しくないものになっている。ぜんぶ貴重だけど珍しくない、ぜんぶ貴重ならぜんぶ貴重じゃない。

 しかしそこでは「このぬいぐるみはIKEAには何千も売ってるものだけど、私が毎日抱いたこのぬいぐるみは一つしかない(と思ってる)」の(と思ってる)部分が肝で、でもそこは思い込みだから隠しちゃって希少性のことを客観的に価値あるみたいに言っちゃいそうなんだけど、私は(と思ってる)という部分が一番大事なのだと思う。

 私は私の大事に思うものを世界中の人々も大事に思うべきだとは思わないし、私が大事に思うものは私の個人的な思い込みのみが根拠でもいいと思う。それによって私は怒ったり喜んだりを私の自由にするともいえる。社会や他人に大事だとかつまらないとか決められたくない。自分のいろんな感情や心情や価値を、他人と共有できると思っている人は孤独というものから縁遠そうで幸せだろうなと思う。実在するのかはわからないけど…

 たとえばだれかの命は、ひとつしかないから世界中の人々が大事にするべきだ、と考えるのがひとびとの感覚や現状に則しているとは私は思わない。逆に私は、だれかの命(やこの世にただひとつしかないもの)は、ひとつしかないから、それを大事だと知った人がだれよりも大事にするべきものなのだ、と思う。

 ほとんどすべてのものがひとつしかないという世界にあって、すべてのものを一つであるが故に大事にするのは不可能だ。道にいるカマキリとか川辺で拾う丸っこい石とかもすべてがたったひとつだけだと言えるんだけど、すべてに言うとすべてが貴重だ、大事だということになる。すべてが貴重だと言っていいんだけど、私に実際に大事にできるものというのは限られている。当然誰かの命よりも他の誰かの命を、ある石よりも他の石を大事にするということになる。

 ものごとの貴重さ、尊さみたいなのって他人にも自分と同じ意識を求めてもしょうがない。私にとって大事なもの、たった一つしかないものはただ私が「それしかないんだ」と思っているが故に大事なものなのだ。他の人にとっても大事である必要はない。そして私にもぜんぶのことを大事にすることは不可能だから、それまで大事だったものを手放したりさようならしたりするときに「でもこのことはちゃんと憶えておこう」とか思うんだけど、それもいづれ忘れる。